毎日ではないけど・・・

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2001年3月28日 水曜日 2:01:12
 娘をアパートへ送って、今帰ってきました。昼間娘と二人で友樹の墓参りに行ってきました、娘が 「友樹のお墓行きたい」 と言ってくれて・・・用事があって帰ることになりました、でも春休み中一緒に大阪に行く予定も立てています。
 また少し寂しくなりますが、掲載を希望されない方からの心温まるメールに励まされました。 本当に、いつも応援してくださっている皆様ありがとうございます。


2001年3月27日 火曜日 1:00:33
 しばらく日記も書けずにいました。彼岸前、板倉町の加害者の親から電話があり、お彼岸には親だけでお線香をあげさせていただきたいとの連絡がありました。私が 「加害者当人が来なければ何の意味も無い」 と言ったところ、17日に少年Eの母子4人、18日に少年Fの母子4人、20日に少年Hの母子が来ました。

 彼らとは、昨年の暮れ我が家に始めて来た時 『毎日日記を書いて見せにくること』 を約束していました。しかしその一ヶ月後に 「日記を見せに来てほしい」 と電話した際少年Fの母親から 「調停員に、イヤなことはイヤとはっきり断っていいと言われましたので失礼します。」 と電話を切られました。 その後二月末の調停の際、調停員にそのことを確認しました。調停員は 「誤解しないでいただきたい、『絶対やらなければならないのですか?』 と聞かれれば、『絶対やりなさい』 とは言えないのです」 とおっしゃいました。

少年Fは最初から最後まで暴力を振るっていた少年です。その少年たちに 「毎日たった五分でいい、日記を書いてその時だけは友樹の事、事件の事を思ってほしい。そして、一ヶ月に一度でもいいからお線香をあげに来るついでに見せてほしい」 そう要求する事は、理不尽な要求なのでしょうか? 20日に来た少年Hだけは、「毎日は書けませんでしたけれど・・・」 とノートを持って来ました。友樹が好きだったバンドのCDを 「バイトして買って来たんで友樹君に聞かせてやってください」 と持って来てくれました。 まだ少年院から帰って来ていない主犯格の親達は一人も来ませんでした。少年Aの母親が花を送ってきただけでした。

 20日、午前中おはぎを作って主人と二人でお墓参りに行きました、その夜娘が帰ってきました。 娘と過ごした数日間は、事件の事をなるべく考えないようにして、娘との時間を大切に過ごしたつもりです。


2001年3月13日 火曜日 23:32:00
 今日またお墓行ってきました。 以前植えたパンジーなどのいくつかが寒さで枯れてしまったので、今日また新しく植えてきました。
これからゲートボール場にお線香をあげにいってきます。


2001年3月12日 月曜日 23:22:44
 先日、実家の母と娘と友樹の墓参りに行き、その後娘の振袖を見に行きました。
昨年の秋頃から様々な呉服屋がパンフレットを持って来たり、ダイレクトメールなどが届いていましたが、どうしても見に行く気になれずにいました。でも、友樹のことは友樹の事として、娘の成人式もせめて写真だけでも残してやりたいと思い呉服屋さんに行きました。嬉しそうに振袖に手を通している娘を見て、来てよかったと思いました。レンタルで済まそうかと思っていたのですが、気に入った振袖が見つかり実家の母が買ってくれました。

まだ少年院に入っている主犯格の内二人は娘と同級生です。 彼らが何食わぬ顔をして成人式に主席しないとも限りませんが、娘の希望をなるべく叶えさせてやりたいと思っています。


2001年2月28日 水曜日 4:07:11
 娘を下宿先へ送って先程帰ってきました。友樹の誕生日には、韓国や北海道の友人から友樹へプレゼントを送っていただきました。当事者の会の友人からは、私が落ち込んでいるのではないかと心配して電話をいただきました。

初めてHPを訪れてくださった方々、励ましのメールありがとうございます。 やまぐちやむこさん、私の体のこと心配してくださりありがとうございます。 たくさんの方に支えられ、励まされ、また頑張ろうと思えてきました。


2001年2月26日 月曜日 23:49:34
 今日は、友樹が17才になるはずの誕生日でした。午前中は調停があったので、午後ケーキを買って娘と二人でお墓に行きました。一人の青年がお墓参りをしてくれていました、最初誰だか思い出せませんでしたが、友樹が4人でバイクを盗んでしまった時の仲間 N.君でした。背も少し伸びたのか、だいぶ大人っぽくなっていました。「友樹の誕生日覚えていてくれたの?」 と聞いたところ、「ハイ」 と言ってくれました。嬉しくて、ありがとうと言うつもりだったのに涙で言葉になりませんでした。

 15才から17才という二年間は、少年から青年へと変わる成長期なのですね。友樹も生きていたらどんなふうに成長してくれたのだろうと、 N.君を見て改めて思いました。N.君はもうバイクの免許も取得したのでしょう、250ccくらいの大きなバイクに堂々と乗り帰っていきました。

 以前、「少年犯罪被害当事者の会」 を通じ、少年犯罪で殺された少年の 「部屋や生活環境など」 を写真に撮り、連載で順番に紹介していきたいと、三田さんというカメラマンの方が取材に来られました。文芸春秋の 「Title」 という雑誌で to the boy 少年犯罪被害者への旅 という連載です。連載一回目は武さん宅、二回目は長野の宮田さんでした。今回友樹のことが紹介されました。 それも友樹の誕生日に合わせるよう、今日発売されました。不思議なモノを感じました。 写真もとてもよく撮れていて、三田さんの心遣いが感じられます、三田さんには感謝の気持ちで一杯です。


2001年2月25日 日曜日 23:11:38
 今日は娘とお好み焼きを作って食べました。以前、「少年犯罪被害当事者の会」 代表・武さんのお宅へお邪魔したときに作っていただいた 「キムチ・チーズ入り」 の味が忘れられなくて、娘にも好評だったので、また作りました。娘はこちらに帰って来ていても、近所の人と顔をあわせるのがイヤなのか、外へ出ようとしません。地元の友人などに会うこともめったにしません。友樹のお墓参りや、買い物も隣町まで車で行きます。

 その気持ちは私と同じです。未だに近所の人にはなるべく顔を合わせたくない。「少しは落ち着いたかい?」 と人は聞きます。何を基準に 「落ち着いた」 と言えるのか、返答に困ります。中には本当に心配して下さる方もいますが、興味本位で聞かれることがつらいです。だからつい、買い物も車で遠くまで出かけます。


2001年2月23日 金曜日 23:44:22
 今夜娘が帰ってきてくれました、何日か泊まれるということで久しぶりに、少し家の中が明るくなった感じです。私も娘の前では極力明るく振舞うつもりです、娘に心配かけたくないし、久しぶりの我が家でくつろいでほしいから・・・ 一緒に料理作って、一緒にテレビを見て笑って、一緒に買い物して。


2001年2月17日 土曜日 23:42:54
 娘と都内で待ち合わせして、買い物に付き合ってきました。久しぶりにたくさん歩いたので少し疲れました。お気に入りのスーツが見つかって、笑顔で 「ありがとう」 と言ってくれました。来週には何日か帰って来られるということなので、あと一週間それを楽しみに過ごせそうです。
26日は友樹の誕生日なので、ケーキを買って一緒にお墓参りに行こうと話しました。


2001年2月14日 水曜日 23:56:11
 昼頃から風もなく穏やかな日になった、友樹のお墓参りに行きました。
カレーパン・どら焼き・プリン・伊予間・コーラ、そしてチョコレート・・・
夕べもほとんど眠れなかった、加害者側は今日が月命日なんて考えもせずのうのうと暮らしている。


2001年2月14日 水曜日 2:19:25
 ゲートボール場の地主さんに怒られても、どうしても亡くなったと思われる時間にお線香をあげたくて毎月の月命日には、地主さんには申し訳ありませんが、お線香だけあげさせていただいています。 今もお線香あげてきました。真っ暗なゲートポール場で友樹はどんな想いで息を引き取ったのか・・・
今の私にできるのは、お線香をあげてあげることくらいしかできない。 霊感が強かったら何か感じてあげられるかもしれないと思うと自分が情けない。


2001年2月12日 月曜日 4:19:35
 娘をアパートに送って先ほど帰ってきました。娘も友人とバンドをやりたいと言い出して、友樹の使っていたギターを取りに帰ってきたのです。友樹のギターも娘に使ってもえらるのなら、友樹もギターも喜んでくれると思います。もう大学はほとんど休みに入っているのですが、バイトがあるので泊まらずに友樹のギターを助手席でしっかり抱いて帰りました。


2001年2月5日 月曜日 23:23:39
 今日は、風もなく穏やかな日だった。 お団子・どら焼き・プリン・カレーパン・コーラ、コンビニで目についた友樹の好きだったものを抱えてお墓に行った。先週私が供えた花を取り替え、墓石を洗い、友樹の好きだったものを供える。本当に食べてくれるのならどんなに嬉しいか・・・
ゴメンネ友樹、ごめんね。

 友樹、ジョイがまた赤ちゃん産んだよ 5匹も、また貰い手探しが大変だよ。
テレビのCMで赤ちゃんが出てくれば、その頃の友樹が重なる。
小学生も中学生も高校生も、男の子を見ると重なっちゃうよ。


2001年2月4日 日曜日 0:26:50
 皆さん、いつも私の体のことなど心配していただき、ありがとうございます。たくさんの方々に支えられて、今の私があると思っています。本当にありがとうございます。

 「時が経てば、自然と心が癒される」 と周囲の人から言われたこともありました。 けれど、友樹への 『いとおしさ』 は日増しに募るようです。 15歳で殺されることが、「使命だった」 なんて思いたくない、「寿命だった」 なんて思いたくない・・・ バイクを盗んだ加害者のままでも生きていて欲しかった、窃盗という罪を償い生きていて欲しかった、どんな容でもいいから生きていて欲しかった。

 昨年末、社会復帰している少年たちを順次呼んできました。日記を書くことを約束させ、その日記を見せに来て欲しいと約束したのに、こちらから連絡をしても、「今はまだ行けない」 と、あれから一度も来ません。彼らがウチへ来た時、抑えたつもりでも怒りが込み上げてきました。「お宅は調停でいくら提示している?」 「300万円です。」 「じゃあ、私が300万円くれてやるから、息子置いていきなさいよ!」 「それはできません。3人できたのですから3人で帰ります。」 そのような言い争いになりました。その後1月15日にも調停がありましたが、彼らの誠意は感じられず示談には及びませんでした。

彼らは、また自分たちの息子を連れて行くと前回のようなことになるから連れて行けないと言います。息子たちも精神的に参っていると・・・ 精神的に参っている? 友樹はもうこの世にいないのに、肉体的にも精神的にもどんなに辛かったか比べようもないほどなのに。 なぜ前回のようなことになると言うのか、原因は何なのか、彼らは解っているからそのな言葉が出るのでしょう。

ごめんね友樹、助けてもやれず、無念も晴らしてやれず、真実も明かしてやれずごめんね・・・

卑怯者さん、あなたはもう卑怯者ではないと思います。
>今は家で勉強し「一生許さない」の言葉を背負っています。
その言葉を忘れず、つらい事もたくさんあると思いますが、そんな時友樹のことを思い出してがんばって生きて行ってくださいね。