飯島京子様
 シンポジュウムお疲れ様でした。
 私のほうは月刊誌の教育の原稿が締め切りの時期で、事件のことを教育に絡めて書かせていただきたいと思ったのですが、おるすでもありましたし、深入りしてもと思いまして、
弁論の原稿に「少年の凶悪犯罪」を書きたいと言う塾生と、ホームページを見たという記事にとどめました。HPの名前も飯島様のお名前も無断では出せないと思いまして、出していませんので、事後報告でお許しください。もう少し学習し準備を整えて書けるようでしたら、そのときは、事前にご報告するようにします。
 
 少年法が少し動きそうで、報道関係もそれなりにこの問題を模索している様子が伺えますね。被害者の会やこのホームページの訴えが確実に圧力になっていると思います。
 
 
 掲示板の意見について、被害者がご自分のホームページで発言される場合、真実の気持ちであれば、感情的な発言も許されてしまうと思いますが、第三者が少年法について是非を論ずるときには、公民としての立場からの論理的な意見でなければならず、そのへんで掲示板に書きこむには、法のどの部分はどう変えるのに賛成か反対かという書き込み方が必要かと思います。そのように考えると、少年法だけの問題ではなくなるので、関連法を考えたり、少年法をかえなくても現行法のもとで対応できる要求事項であったり、そういうことを間違いなく突き合わせるには、まだまだ私は学習不足だと思っています。
 
 ともあれ法全体が少年を自立させない法になっているため、教育法等もその精神でくくられていることには、ずっと疑問を感じている者です。
 
 私自身は教育の立場ですので、少年を断罪するとき、教育界も同様に断罪されなければならないと感じています。教育界といっても、必ずしも学校関係者や親ばかりでなく、地域も含めて少年達を取り巻くすべての育てる立場にある行政や大人たちについてです。
 しかし、加害者の環境や背景、生い立ち等まったくベールの向こうで、知らされないということは、なにが彼らを追い込んだのかという分析が不可能で、被害者の方の要求と同じように、一般にも加害者の氏名はともかく、事件と背景の詳細について知る権利を保障してほしいものだと思います。
 
 命の大切さについて。殺した人を殺したいのは被害者の心情だと思いますが、法律がそうなってしまったら、自家撞着です。少年凶悪犯は、生きてどこまでも自分自身の犯した罪を深く考え、二度とそういう事件を起こさないための資料を提供し続けることによって、今後の教育に貢献してもらわねばなりません。
 凶器をもってしか力をふるえないような少年は、凶器をもてない環境に置けば、小心で、論理的に脆弱な存在です。刑務所でなく、確りした人間教育の受け皿こそを拡充してほしいと思います。  
 
 警察不信を論じながら、少年犯を大人と同じ刑法のもと警察に委ねようという意見は、やはり自家撞着だと考えます。別件逮捕、余罪追及、嘘の自白、冤罪、さまざまなリスクが不在証明を出しにくいすべての少年達の上にかかってきます。
 自分の子が被害者であったらという切り返しも多いようですが、私達の仕事は、他人の子、自分の子という区別ができにくい仕事です。自分の子が被害者であっても、法改正に関する意見は、殺人犯を殺したいと思うかどうかという感情とは、別の問題だと考えます。
 
 以前に、私自身、わが子が関わった場合を考えなければ、というようなことを書きこんだかもしれませんが、それは別の意味で、自分の子は凶悪な犯罪の加害者にはならないという前提での、良い子悪い子、強い子弱い子を区切る論調に対して、法のもとではすべての少年が加害者側に置かれる可能性があると言いたかったのです。
 
 
 直接法改正の詳細に触れなくても長くなってしまいました。
 飯島さんが掲示板を開設されているのは、いろいろな意見を求められているのだと解釈しますので、私なりの現在の段階での思いを書きました,またお邪魔します。
 
  皆様お気をつけてお過ごしください。                                            
 
                            飯田啓子