死ぬってことはそれ自体理不尽なことだと思うんだ。
それは肉体的なことや物理的なことじゃなくて、精神的に。
いきなりその存在が消えてしまう、もう2度と会えない。
ぼくも今年の五月に祖母をなくしました。
だから人が死んでしまうと言うことがどう言うことなのは、身をもって分かっていま
す。
昨日までそこで笑っていた人がもう2度と笑わない、怒りも、泣きもしない。
そこには、もう、なにもない。
残っているのは自分の中のその人間の思い出と虚しいほどにはっきりと形作れる残像
だけなんだ。
それでも、寿命なら。病気なら。自然なものだったら仕方がない。
そう割り切ろうと必死なのに。
それなのに、自然じゃない力で命が壊されてしまったら。
割り切れるものか、どうやって割り切ればいい?
ぼくはその術を知りません。
自分が体験したことがないことはどんなに楽で簡単なことか。
上っ面の常識、自分の面子、体のいいなぐさめ、同情、そんなもので片付けられると
思えるから。
ぼくは祖母が死んでやっとそれに気がつきました。
それまでぼくが身内の亡くなった友達に、どんなに薄っぺらくて情けない言葉をかけ
てきたのか。
ことばなんか、いらない。
本当に必要なのはことばなんかじゃない。
そんな、いつまでも引きずるのはよくないよ、なんていうことばは要らないんだ。
引きずればいい。気が済むまで。
引きずらなくなったのはもうあまりその人間を気にかけなくなったってこと。
忘れたってことだから。
誰からも忘れられたらその時が本当の友樹くんの『死』だと思います。
本当ならいまぼくは友樹くんと同じ学年の単なる高校二年生にすぎません。
友樹くんはもう学校には行かないけれど、僕は学校にいっている。
友達がいて、先生がいて、親がいて、みんな好きです。
時々、突然皆が僕のことを忘れてしまったら、と考える。
とっても、怖いです。
忘れられてしまうのが、僕の存在が、いる場所がなくなってしまうのが。
だから、まわりに何を言われても、いつまでも友樹君を感じていてください。
死んだ人間を現世にとどめているものは、残ったものの想いじゃない。
きっと忘れ去られた人間の想われていないという未練です。
少なくとも、ぼくはそう思います。
お手軽なことばだけど、
「がんばってください」 
へんな文章ですいません。             東京都 瀧澤由舞