「まだやり足らなかった」(少年F)
「チョー気分良かった。Hも殴ってこいよ。」(少年F)
最初に飯島君をパンチした後に、『もやもやが取れた気分』になった(少年H)
「『クソー』 という気持ちで蹴った」(少年H)
何をうっ積させているのだろうか・・・。「喧嘩は1対1でする」そんなルールもな
く、素手で殴り合うルールもない。およそルールなんてものはなくなってしまった。そん
な心の余裕は、まだ地域社会が世間知らずだった時代の話だ。地球の裏側のことは解るけ
ど、隣人のことは解らない。地域から連体がなくなり、それぞれの家族がみんな独りぼっ
ちで街の中に取り残された。まるで流民のように入れ代る家族達。いつの間にか、奇妙に
閉じられたカタチの家が建ち並ぶようになっていた。塀の高さは年々高くなり、一見「幸
福で明るい明日」の争奪戦が、毎日繰り広げられている。自由と劣等感の重圧を背負って
生きて行かなければならない孤独で長い人生が待ってる。同世代の子供達は、大きな夢を
描いて世界へと羽ばたいて行くかに見える。多様化とは孤立化のことであって、価値観は
画一化へ向かっているだけだ。そんな中で自分だけが取り残される。みんな大人になれ
ば、小さな地域の敗者のことなど忘れるに決まってる。やがて、蔑視されるかもしれな
い。・・・それが苦しい。それがとても苛立たしいのだ。でも彼等にはその苦しさや苛立
たしさがどこから来ているのか判ってない。それがどんなカタチをしているのかも複雑す
ぎて解らない。判っているのは、大人になるにつれ序列が少しずつ下方に落ちて行くこと
だけだ。模範的とされている子供も、自分が冷酷に加担している知能犯になることを知ら
ない。まさに完璧な物質主義の社会だ。成功と権力とを手にした者は、法律の向こう側に
陣取って「我こそは正義なり」と権利の行使を有利に進めて行くことに余念がないのだ。
ところが、捨てられて行く若者等はそんな知能犯でもなく、つまり勝者ではなく、物心つ
いた頃から既にこの社会の劣等感にまみれた哀れな敗者だった。だから彼等は馬鹿にされ
ることを極端に恐れた。メンツが潰されることを嫌った。メンツを保っていられる青春期
の無法時代(腕力の時代)の、この一瞬が彼等には優越感として輝いている時なのだろ
う。「こいつが、タメ口をきいた。」こんなつまらないことを言うのだから。 でもここ
では、彼は帝王なのだ。その権威を汚す者、自分の存在を無視する者には、制裁を加えな
ければならない。それが出来なければ、この小さな世界ですら「敗者」になる。それが彼
等の物言わぬ言い分だろう。だから小さな嘘でも許せない。自分の所有物が盗まれるなん
てことは到底、我慢ならないことになる。抑圧が大きければ大きいほど反発するエネル
ギーも大きい。彼等の敵は社会そのものなのだが、彼等はその真の鉾先を知らないのだ。
世論は往々にして「社会のせいにするな、自分に甘えるな」と一喝して終わりにするが、
これは何処まで行っても勝者の論理に過ぎない。年々、凶悪化してゆく犯罪がこの詭弁を
証明している。何故、人間は競争に勝たなければいけないのだろう? 何故逆戻りはいけ
ないのだろう?
このような暴徒を阻止する方法があるとすれば、「みせしめ」としての刑罰をもって封
じ込めるしか方法はない。我々の欲望追求の行き着く先は人間不信の恐怖社会であって、
それは我々が望んだことで、エゴイストばかりが集まって話し合った結果、必然的に発生
してくる負の要素であり、代償だからだ。 必要なのは「みせしめ」だ。
それとも、人々が改心して拝金主義的な価値観に別れを告げるのか・・・。 金属バッ
トで本気で殴るような少年を許す法律などあってはならない。確かに今の少年法が軽すぎ
るのは、誰の目にも明らかだと思う。時代は更に進んでしまったからだ。しかし、法律を
改正するだけなら、刑罰は重ければ重いほど良い結果をもたらすということにしかならな
い。また、自分は拝金主義者ではないと思っている拝金主義者達に、このような選択が本
当にできるのだろうか・・・? 日本には、神はいないし、倫理を担っているような宗教
が支持されているわけでもなく、またそうした哲学もない。
加害者と加害者の親達の不誠実を糾弾する気持ちは解るけど、心の底では子供達も親達
も、あるいは私達も、みな他人を信用していない。主張される権利、または賠償請求の大
きさに怯えて口もきけない。誠実な謝罪が有るとすれば、命の償いは命をもってするのが
妥当かもしれない。しかし、恐ろしくて口に出して言えない。そしてそれを公然と実行す
るかもしれない社会的環境がそこに厳然としてあるのも事実だ。我々はかつて侵略した他
国の国民に対してきちんと謝罪できないでいる。・・・何故だろう?
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もう20年以上も前になるけど、オー君という小学生がいました。彼は高層住宅の踊り
場から投身自殺した少年です。TVのニュースで少し見ただけでしたが、忘れることが出来
ません。彼はあまりにも優しかった。それで周囲は彼の悲しみの深さに気付かなかった。
今はこうした優しい子が危険にさらされているような気がしてなりません。
社会には沢山の仕事があって、様々な役割があって、それぞれの仕事が、あるいは立場
が誰からも認められ、尊敬されていなければならなず、子供達の将来の間口はもっと広く
て豊かで、選択は自由でなければならない。収入の高さや住んでいる場所がステイタスシ
ンボルであったり、頭の良さや学歴で人間の価値を決めたり、生まれや育ちで差別があっ
たりしてはならない。
オー君は「馬鹿」についての詩を書いていた。 内容は忘れた。 でも、とても優しい
内容の詩だった。
「馬鹿が素晴らしい」なんて言ったのは、宮沢賢治とトルストイくらいなものです。実
はこの二人以外は大抵みんな馬鹿だったのです。だから馬鹿にされるとみんな一様に怒こ
るのです。「凡庸が愛される社会」を心から望んでいます。
オー君のお母さんに、「私は20数年を経た今でも貴方のお子さんのことは忘れていな
い。」と伝えたい。オー君がくれたものを、私は今でも大事にしています。きっと貴方の
友樹君もオー君と同じ役割を果たし始めていると信じています。
この世界は異常ですよ。気楽に盗み、簡単に殺す。この異常をこそ糾弾してください。
この異常から子供達を守ってください。貴方は凄いことをやったんです。友樹君が生きた
15年とその死の「現実」