たとえ、天命と言われていても人の死は悲しい。
知っている人の死は、一層悲しいし、
家族など、親しい人の死はさらに悲しい。
病気で亡くなったとしても、自分の責任感じるし、ましてや事故でなくなると、もっと責任がずっしりとかぶさる。

ましてや、人を殺めたとすれは、どれほど、厳しい試練が待つのか、想像もつかない。
友樹君を殺めた若者達の苦しみは想像もできないが、友樹の親御さん、兄弟の苦しみは、私の想像を超えてしまっている。
友樹君を殺めた若者達を許せない人々の輪は確実に広がっている。
それでも、こうした若者達を出さない努力は進んでいるのだろうか。
若者の中には、友樹君の存在もあれば、友樹君を殺めた若者達の存在も同居している。
もちろん、若者に限らず、大人にも両者が共存している。
正義を見つければ、誰でも、すぐにも殺めたがる。
戦争がそうだ。
人々は正義を求めつつも、
自分の中に殺人鬼がいるのを気がつかない。
「いのちの尊さ」は、言いつつも、自分が
動物などの残酷な死の上に、生きていかざるを得ないことを意識していない。
正義だから、殺めてもよいという考えには間違いがある。
自分が生きるために、相手を殺めてもよいと考えが間違っている。
生きることの正当性は全ての人が持っているのだから、
正義ために、人を殺めることは止めて欲しい。
正当防衛だとしても、なぜ、そのような危険を招くのか。
なぜ、そのような危険地帯に赴くのか。
なぜ、そうした危険な関係を作ってしまったのか。
私達には、戦争を止める力はないかもしれない。
その心が、近隣で起こる殺人を阻止するできない心に通じる。
知らず知らずに、育っていく、正義の戦争、
正義の殺戮、
それは生きるための殺戮であっても、
近隣での殺戮と同じに、決してあってはならないことだ。
もし、友樹君が生き延びていたら、
そのメッセージは、今、お母さんが訴えている
「いのちを守る」ことだと私は思う。
志田糺