最近、ホームページからどっしりとした生の響きが聞えます。
被害者はもちろんのこと、加害者からも、その親からも。
昔から、ここに訪れれいる人達も、私がそうですから、このホームページの大切さを実感するでしょう。
「ゆうき君」が生きていたら、こうした活動の中心を担って欲しいというメッセージをお母さんから伝えているようで。
人は傷付けて良いものではありません。
ましてや、殺すなんて。
それでも、このホームページには「報復のためには、加害者を殺せ殺せ」の大合奏がありました。
それでは、誰がその役割を果たすのかと。
お母さんが、加害者である少年達に話される場には居たことはありませんが、これら少年達には、死刑になる子もいるかも、何十年も牢獄暮らしをすることになる子がいるかも、知れません。
裁判も、法律も、お母さんとは別人で、この子たちを裁く。
結果として、加害者と同じ気持ちで、裁く場合もあれば、被害者と同じ気持ちで裁く場合もあるでしょう。
やはり、裁く側には、法の下での加害者が生まれる。
死刑執行官が職業とはいえ、やはり、加害者の気持ちにならないと執行できない。
どうしても知りたいことは、なぜ、ゆうき君を殺すまで殴ったのかと同じに、なぜ、人々は、戦争や、死刑や、ましてや、社会での殺人を容認するのでしょうか。
映画監督だって、どうして、その場面を称えるのでしょう。
もっと、真摯に生きた人生が一杯ある。
なぜ、人々はマスメディアの三面記事にため息を吐くのでしょう。
ゆうき君は、殺されなかったら、ひっそりとした幸せな人生だったかもしれない。
アピュイでのお母さんの努力は、人々には、幸せがあるとの訴えのように思える。
それを守り合うのが、人の道であるように説いているようにも見える。
それを説く相手は、人の仕合わせを奪った加害者達である。
そして、マスメディアが、訴えなくてはならない、原点がこのアピュイの活動にある。
人を殴って、人の痛むをみて、幸せな人生はない。
人を苦しめて、人の苦しみをみて、幸せな人生はない。
正義といえども、自らが、生きたいと思っても、人の人生を駄目にして、どうして、正義、生きたいといえるのか。
若者達が、今の大人のやることを学び、喧嘩に走り、戦争に走り、そして、ビジネスに走りして、人を踏み台にすることばかりを夢見る育ち方、どうして、まともに、ゆうき君の死を語れるのだろうか。
それもこれも、このホームページの中で、被害者も、加害者も、自らの生きざまを語り、同じ道にあるとの確信を持ったと思う。
この和の広がりと、この和の継続が、何時か、人を傷付けてはならないという、大原則を、自然に語り合えるような、社会がやってくるような予感がする。
この流れを作ってくださった、飯島さん、何としても、頑張って頂きたいとの願いです。
志田糺