約1年半ぶりに訪れました。気になりながら、ときに手厳しいご意見に苦しくなって、また私自身の忙しさから遠のいていたのですが、それが今こうしてパソコンに向かっておりますのは、男子中学生さんのご意見によって、そして、その反論の応酬によってです。(実は、盆休みに考えをまとめはじめました。8/17
S.Oさんのご意見はとてもやさしいですね。)
友樹君が亡くなったのは15歳。加害者も10代。男子中学生さんも近い年齢ですね。まっすぐで、純粋で、しかし未熟で、様々な変化を遂げている段階にある年代だと思います。彼はきっと、手厳しい意見が横行する場に戸惑いを感じたであろうと、私は想像します。そうして去った私に反し、彼はその疑問を意見として、文章として、このページに参加されました。しかも、その意見は、非常に中立的で建設的な意見だと、私は思いました。浩司さんの意見も西追さんのそれもチェックしていないのでよくわかならいのですが、私は男子中学生さんには、ご自分の意見を元にもっともっと人間性を深め成長を遂げて行って欲しいと願っています。
私は以前一度、このホームページに意見を送りました。2000年11月8日。No.1163。
飯島さんに少しでも苦しみから解き放たれて欲しいとの願いではありましたが、お子様を理不尽な暴力で亡くされ、警察やマスコミの対応の理不尽さに、納得できないと精一杯闘っていらっしゃる飯島さんには、きっと非現実的な意見でしかなかったと思います。
あれから、1年10ヶ月。被害者の遺族の方のホームページには私の意見は場違いか、と思いながらも、男子中学生さんへの反論を見ながら、その反論は反論として、彼の心も潰されることがあってはならないとの思いに駆られたのです。
友樹君の思い出の写真からも伺えますが、子供たちは、 赤ちゃんから子供へ、そして成長して社会の中へと一人立ちするまで、実に多くの変化と成長を遂げます。いじめ、校内暴力、学級崩壊。子供たちの問題は取り上げられ続けましたが、そのいずれの渦中にあっても、一人一人の子供たちは、その時々に、小さくてもその胸一杯に喜怒哀楽の感情をみたしています。でも彼らは子供なりの小さな視野でしか、物事を見、考えることができません。中学生は中学生なり、高校生は高校生なりの精神的レベルにおいてです。知識の上では大人よりはるかに上回っていたとしても、彼らは大人とは同じではありません。
だから、一つ一つの経験、体験を元に一人前に成長して欲しいと願わずにはいられないのです。失敗して傷ついたり、自ら出た他者への厳しい言葉に自己嫌悪に陥ったり、あるいは自らの間違った行動への大人の激しい怒りに触れたり、親の頭を下げる姿に申し訳ないと思ったり、そうした日常をとおして、一人前に社会生活を切り開いていける人間に成長するものだと思います。少なくても生きている限りは・・・
今回、もう一度事件の概要を読ませていただきました。本当に痛ましいと思います。その上で、あくまでも第3者である私は思います。
例えば大きな事故があったとき、小さなミスが重なり合って原因となることがあるように、一人の少年の命が失われた背景に、何度も何度も、このことがなかったら友樹君は命を失わなかったのに、と思うことがあります。だからこそ親御さんは、悔しく、苦しく、やりきれないのですが、それはまた同時に、この事件に関わった加害者側の誰もが、一人の少年の死を考えるにあたって思うことでもありましょう。
小さな誤解、大きな誤解。思い込み。未熟な少年ゆえの粋がり。行き過ぎ。彼らの側からの正義感。その中で、決定的に欠如していたのは、暴力の危険性と自らの責任の認識。短絡的で、激しい行動、人を人と思わない思い上がりが、いかに悲劇的な結末に、他者を、そして自らを導くかという認識。
それぞれ別々の心根を持った子供たちの人生が一つに重なり合い、一人の命が失われてしまったのです。
今日も中学生が祖父を殺した、というニュースが伝えられました。、家庭の中のいざこざから祖母や親を殺したという事件は昔もありましたし、ここで問題にすべき友樹君の事件とは別のものではありますが、ただ、未成年の心の成長という点では、やはり痛ましいものを感じざるを得ません。でも、個々の子供たちの人生はまずは家庭環境から始まりますし、そこには他者は入り込めません。他者のできるのは、社会に漏れ出してきた、彼らの苦しみに、あるいは結果としての罪の苦しみに、どう対処していくか、と言うことだと思います。
まず、罪は罪です。犯した罪の重さをしっかり認める作業は大切です。加害者の苦しみも善悪の理も、それが加害者となった人間の人生観に血肉となるような教育がなされる必要があります。そのために必要なのであれば少年法は改正すべきです。
今の少年法が、未来ある少年を善導する為にくつられたものだとすれば、その趣旨こそが重要であるとおもうのです。
たとえ今は未熟、無知によって悪鬼のような少年たちであっても、人の優しさにふれ、心が成熟していき、人を思うことを知り、大切なものを失うさみしさや痛みに心震う未来があってこそ、友樹君の死は報われるのではないかと私は思うのです。
いや、そうではない。殺したものが生きていることこそが、反省が見えないことこそが、苦しいと、京子さんは思われるでしょう。しかし、たとえ日記に百万遍も『ごめんなさい』と書いたところで、心の中で舌を出していたら何にもならないのです。むしろそれすらできない頑なさを、正直とも見ることもできるのです。彼らに表現を教えることも必要です。でも、一番大切なのは、失いたくないものを手に入れて見なければ、京子さんの苦しみは解からないということなのです。
被害者側にたった意見で死刑という言葉がよく出てきます。オクラホマの事件のことも書かれていました。犯人には反省の色が無かったということでしたが、たとえ死という恐怖を前にした反省の言葉を聞いても、やはり、むなしさ、やるせなさは尽きないと思います。
私が加害者に望んでいるのは、生きて、その命を、人生を、社会に役立てて欲しいということです。
未来は壊すものではなく、築いていくものだと思います。建設的で温かい試みがなされるべきだと思います。
私は宗教について決して詳しいわけではなく、また、信仰心というものもあまりありませんが、好きな文章があります。
・・・あらゆる魔が十方の無数の世界において魔事に従っているが、彼らはすべてまた、不可思議解脱【思議をもってはかりえぬと名づけられる解脱】にある菩薩なのです。方便に巧みなので、衆生を成熟させるために魔事を行っているのです。・・・
「中央公論社、大乗仏典・維摩教」より また、松原泰道著「わたしの歎異抄」の中にも、似た表現があります。
・・・観音菩薩は、さまざまな姿に変身して人を救うと、「法華経・普門品」に説きます。それは、私たちを慈しむ温和な姿だけが観音様ではないのです。その必要があるなら、仇や敵の姿であらわれたもうのです。・・・このことは、大乗仏教の思想で宗旨・宗派にかかわりありません。「誓願不思議〔仏の誓願は合理的に説明できないはたらきがある〕とも、また仏の機能は「摂取不捨〔すべてを救いとって取り残しをしない〕と、いずれも・・・
悪は悪ですし、被害者の方にとっては自らを苦しめる何者でもない。子供をとられれば鬼にも蛇にもなる。
だからこそ、私はこのページに、わたしのような意見を度々述べるべきではないと思うわけですが、中学生さん。世の中にはいろいろな人がいます。いろいろな立場があります。いろいろな意見を聞き、述べ、勉強していってください。
まずは、身近な人との、直接接することのできる人との人間関係を大切にして下さい。
最後に飯島さん。
お見苦しい文面で申し訳ございません。
まだまだ暑い日が続くと思われます。元気でがんばってください。
F・H