初めに、本件被害者の友樹君並びに御遺族の皆々様に、心よりの哀悼を捧げます。
そして、加害少年とその関係者の真剣なる贖罪と、司法・検察・メディア担当者の一層の猛省・尽力を心より望みます。
 以下に述べる拙文が、掲示板掲載に相応しいものか否かについての御判断は、管理者である飯島様に一任申し上げます。

 私は母の祖国であるフランスで生まれ、高校に入るまで欧州を転々としました。第2の祖国フランスは、私が物心ついた時には死刑制度を廃止(正確には執行停止措置)し、他の欧州諸国も次々とそれに倣いました。学校の正課では、市民革命以上に時間を割いて人権教育が行われ、国内法の変遷とEU統合との関わりについての議論も積極的に行われました。
 そんな私が日本の高校に通うようになっても、死刑制度に反対の立場を表明するのは自然なことでした。すると、同級生のみならず教師までもが顔を歪めました。まるで犯罪者の手先のように見なされ、左翼運動家のような扱いも受け、とても戸惑ったこともあります。・・・なぜ、このような誤解が生じるのか、しばらくの間理解できませんでしたが、ある事件を契機に日本国内における死刑制度論議の特殊性に気付きました。
 この掲示板に集われる方々ならば、山口県光市の母子惨殺事件を覚えておられるでしょう。少年法と死刑適用年齢に激しい議論を巻き起こすきっかけとなった事件です。・・・被告少年の判決が近づいた頃、事件の遺族、弁護士、刑法学者達が議論する様子を、民放テレビ放映していました。しかし、事件について冷静に話をしていたのは愛妻・愛娘を惨殺された被害者遺族のみで、残りの学識経験者達は事件から遊離した自説の展開に躍起でした。そして、日本の死刑廃止論の急先鋒とされる刑法学者の発言には、唖然・呆然とさせられました。
「死刑判決を受けてる殆どの加害者達は、被害者より辛い立場にいる。今ここで、死刑制度を廃止しなければ、世界の趨勢に乗り遅れた日本は笑いものになる」
  ものすごいショックでした。こういう人が六大学で刑法を教え、死刑廃止論を推進してる現実が信じられませんでした。日本における死刑制度論議の特殊性が、これら廃止論者の「歪んだ感覚」に起因する場合が多いことを、初めて肌で感じた瞬間です。そもそもヨーロッパ近代刑法の成り立ちから考えれば、少年法も含む刑法一般には刑事手続きの場で加害者と被害者の対立を最小限に止める役割があるはずです。「加害者達は、被害者より辛い立場」などと無意味な比較に基づく私見を明言する刑法学者など、悪い冗談に感じます。また「世界の趨勢」というのも、およそ説得力に乏しい論拠と云わざるを得ません。死刑廃止国の中で目に見えて凶悪犯罪が減少した例は見受けられないし、昨今のグローバリゼーションに反発する形で死刑復活を標榜する政治勢力も台頭しています。
 また、安易に「世界の趨勢」を主張する死刑廃止論者達は、「死刑は国家による殺人」という言葉も無意識に吐きます。この言葉は、元フランス法相バタンテールの発言を引用したものでしょうが、この発言には背景があります。70年代までのフランスは、人種・党派による政治的圧力が絡んだ冤罪、そしてギロチンによる前近代的な死刑執行が常でした。それらの現状認識に加え、革命直後の混乱と、ジャコバン派によって政敵が断頭台に送られた歴史をもって、「無知と傲慢に満ちた権力は、時として国家による殺人を合法化する」という言葉が残されました。彼我の歴史を勘案すれば如何に安直な引用であるか、ご理解いただけるはずです。日本の死刑廃止論者達が、現行の刑事手続きは全て「無知と傲慢に満ちた権力」によって運用されてる、と具体的に主張してる場面は寡聞にして聞いたことがありません。実際その種の主張が存在したとしても、彼らの殆どは少年法改正に激しく抵抗してきた人達で、大きな矛盾が残ります。近代刑法が機能してる国であるのなら、冤罪による刑死は「重過失致死」と定義すべきで、「国家による殺人」はあまりに飛躍が過ぎるでしょう。個人的には、「世界一自由で民主的な国」を自称しながら先制攻撃を合法化した合衆国の議決の方が、その表現に相応しいと感じるのです。
  日本という国がこのような論客しか持ち得ない現況では、死刑廃止論が定着するはずもないし、議論に値しない上滑りな言葉遊びのみが繰り返されたのも納得が行きます。被告のみならず、刑事手続きに参加できない被害者が置き去りにされてきたことに関心を示せない「人権派」というのは、とても皮肉に映ります。どなたかが書かれてた通り、この国での「人権」や「平等」は理念ではなく、政争の具に使われてただけなのでしょうか。

 さて、一連の掲示板投稿・休止中のBBSを一通り読んだのですが、この掲示板で死刑制度を論ずることには抵抗を感じます。友樹君が亡くなった経緯には未だに不明瞭な点が多いし、個人的に傷害致死という事実認定に疑義を覚えます。また、飯島さんが様々な嫌がらせを覚悟の上で開設されてるページで、事件から乖離した形での議論に価値を見いだせるのでしょうか? 事件に際して怒りと共感を持つのは当然として、その余勢を買って「被害者の気持ちがわかるのか」とか「死刑存置論者は野蛮人」などという次元では、犯罪被害者も冤罪被害者も、そして刑死者も浮かばれることはないでしょう。死刑制度に限らず感情論が一切のムダとは思いませんが、いずれかの立場に肩入れするあまり「言葉狩り」の仕掛け合いに堕してる場合も散見されて、とても残念です。
  死刑存置論者達の代表的な感情論は「自分が被害者になっても同じことが言えるのか」とか「自分の身内が殺されても平気でいられるのか」というものがあります。身内でなくても惨たらしい事件が頻発する昨今、凶悪事件に遭遇して平気でいる人などいるわけがありません。しかし、「法とは国民の一般意志であり、国民全てがその策定に参加する権利を有する」(フランス人権宣言)という認識を持つのは、法治国家に生きる市民の義務です。自分が被害者になる可能性、加害者となる可能性、冤罪を着せられる可能性、法に関わる全ての可能性を受け入れ、常に建設的な法改正・運用を模索することが、法治国家に生きる市民の前提のはずです。死刑廃止論者なら、自分の身内をなぶり殺されても死刑以外の断罪を選択するのは自然なことなのです。(当然、感情的な葛藤は等しく存在するでしょうが)  ただ現在の日本のように、犯罪被害者の置かれた立場が不当に低い場合、これらの前提が成立しにくいのも事実でしょう。飯島さんが日記欄に記されてる通りなら、加害少年達に「贖罪を通した未来」が待ってるとは到底思えません。
  感情論については、前述の通り死刑廃止論者達にも、より厳しく求められて然るべきと考えます。今の日本の司法事情で死刑廃止を求めることは、被害者や遺族を押し退け更に傷つける場合があるということを、肝に銘じるべきです。やはり、どなたかが書かれてたことですが、既に犯罪を強いられた立場の方々に、聖人君子であることを強要するのは、とんでもない身の程知らずではないでしょうか。

 最後に、皆さんに読んでいただきたい本があります。

『そして、死刑は廃止された』(ロベール・バタンテール著 作品社)

 フランスが死刑廃止に至るまでの苛烈な道程を記したもので、著者はミッテラン政権下で死刑執行停止を宣言した元法相です。日本の死刑廃止論者達は、これだけの意思と理想を持って、憲法や刑法・少年法の矛盾を正した上で、死刑廃止の土壌を育むだけの気概があるでしょうか? また、存置論者達は、複数殺人犯のみに死刑が科され、友樹君を死に追いやった者達が「傷害犯」として世に出てくる現状を、容認するのでしょうか?
 私は、この本を原書で読んだ時、自分が死刑廃止論者であることに確信を持ちました。(もちろん私の解釈を一般化して、不特定多数に押しつける意志は毛頭ありません)
その一方で、犯罪に対してより一層毅然とした態度を示し、犯罪被害者達の声に真摯に耳を傾ける必要も痛感しました。

 自分なりに気を付けたつもりですが、飯島さんや犯罪に遭遇された皆さんにとって不愉快な表現があったらごめんなさい。これからは、私なりに犯罪被害者の方々と接点を持っていこうと思います。
 
 全ての傷ついた方々に、神の御加護を

                                東京都中野区・佐藤俊博