学生時代、法律の時間に、「死刑について」のレポートを書いて、論議をしたときには、圧倒的に死刑反対論が多かったように思います。賛成を唱える人には、身近に被害の体験があって、人間は想像を超える凶悪なことをするものだから、と言うような理由を述べていたのが印象的でした。
 
 体験によって、立場によって結論が変わるのは確かですが、もし被害者になったら、個々の世界観がどのように変わるか、などというようなことを、生れ落ちも、育った環境も知らない人に、体験の無い人が想像で推しつけがましく言うのはどうなのでしょう。大変僭越なことなのではないでしょうか。
 
 そんななかで、ご自身も被害者の遺族であられながら、犯罪を犯した人達と心の交流をされている荒木さんの、抑制のきいたご意見が心に響きました。
 
 私も日本で、暴力団への報復のために殺人を犯した外国在住の外国人の方と縁あって文通しています。私の場合、犯罪者の更生に関わるとか、そのようなことではなく、心から人間にひかれて文通しています。きっかけは、裁判を支援した先輩の死によって、遺品の書簡の束を私が入手したため、その方と交信することになりました。文は人を表すと言いますが、日本の多くの人が失っている一途な人間性に心を揺さぶられています。
 
 体験の有無だけではなく、刑を考えるとき、どれだけ公の立場に身を移せるかは、人それぞれの憎しみの深さやさまざまな事情によるでしょう。どの立場も、良いとか悪いとか、ネット上で他者から批判される種類の、単純な事情ではないはずです。 
 
 飯島さんが日記で、そのときどきの気持ちを正直に語られていることは、大切なことで、あえて公の立場に立つ必要などさらさらないと思います。そういうHPでしたら、法律家がつくればよいことだと思います。飯島京子さんが、被害者としての飯島京子さんの意見をそのままに述べられているから意義が大きいのだと思います。
 
 私は、飯島さんの意思とは、この点では、ずれることを以前から伝えていますが、、私自身は、もともとアムネスティーに近い立場で、せめて死刑の執行は差し控えてほしいと思っています。どのような命も、殺人者になりたくて生まれた命は無いと思うと同時に、冤罪があとを絶たないことも理由の一つです。
 
 どのような死刑も残酷で、それを肯定しようとは思いませんが、日本で行っている死刑は、断頭台に登っていって、台をはずされる方法と聞いています。処刑の準備をし、立ち会って死体の処理をする公務員、執行人の仕事は、まさに非人道的で野蛮としか言いようがありません。血の通った罪も無い個人に、そういう仕事を公務としてさせているのも死刑を是とする法律です。
 
 アフガンシンドロームによるらしい帰還兵の殺人事件が集団で発生しています。人を殺せば、深いところで心を病んでいくのです。傷は癒えることはないと思います。
 
 日本の軍人たちもそうでした。私は司令部の長で、戦後、パージになった戦犯の伯父と一緒に住んでいましたが、晩年は狂って、ああいうことはするものじゃない、と戦中の中国で直接手を下し犯した侵略と殺戮の過去に心を苛まれ、狂って死んでいきました。その伯父にしろ、太平洋戦争が始まったときには、 「こんどは負け戦じゃ」 と言っていました。参戦したくなかったし、人を殺したくなどなかったと思います。
 
  ご意見をするものは、さまざまな立場で意見を書きます。だれしも自分の立場でしか書けないと思います。ご意見板を読んで、他者の足場について無知なままに、その人の哲学や思想にまで立ち入って、言葉で説得しようとすることは、どうなのでしょう。被害者でもない人が、「あなたが被害者だったら」 などと言うのは、空論だと思います。
 
 もちろん飯島京子さんは、飯島京子さんの立場で、被害者の立場で訴え続けられるべきです。そうでなければこのHPの意味が半減してしまいます。私は、私の意見しか言えないけれど、飯島京子さんからたくさんのことを学び続けています。
                                           飯田 啓子