初めまして。本日スーパーテレビを拝見いたしました。昨今の少年事件、幼児虐待等の報道を
耳にする度、社会への不安、不信感が募り、また被害者、遺族の心情を察すると胸がしめつけ
られ、やり場のない憤りをどこにぶつけたらいいのか、と自分自身の無力さにも腹が立ちます。
そんな中、もしも、私が飯島さんの立場だとしたら・・・。そう思いながらテレビを拝見し、子、友樹くんを思う飯島さんの尊い心、現状のままならない少年法への不満等、ひしひしと伝わって参りました。友樹くんを失った飯島さんのお気持ちは、私などには想像すら適わぬほど惨く、やり場のない憤りを抱えながら、それでも懸命に生きなければならない遺族の心情は、辛く苦しいのだとあらためて痛感いたしました。
放送中、私が飯島さんの立場だったら・・・、と何度も考えました。被疑者は彼らの規律(間違った)で友樹くんを処罰した。だから私も私の規律で処罰(正当防衛)しよう。被疑者のひとりひとりを
闇夜に襲い、友樹くんに与えた暴力と同じだけの暴力を与え続け、最後に殺す。殺してもなお殴り公衆の目前にさらしものにしてやる。途中もしも私が討たれたりしてもかまわぬよう、殺し屋を雇いすべての計画を何としてでも遂行させてやる。被疑者の全員が、自分が殺されることを悟った瞬間、恐怖に顔を引き攣らせ、泣き叫び、命乞いをするだろう。その時、初めて自分のした行為を悔いるのだ。そう考えました。
しかし、被疑者の供述書を読み終え、私の考えは一変いたしました。凄惨極まりない暴行を加えられ続けた友樹くんは、友達をかばい、その責任をひとりで受け続け、最後まで、息の続く限り耐え続けました。果たして被疑者の中に、友樹くんと同じように耐えられる者がいたでしょうか?答えは、NOです。みな泣き叫び、命乞いをしたでしょう。
放送後、私は考えさせられました。「絶対」にあってはならないことが度々起こる現代。歴史を紐解いても、それは繰り返され今日に至っている。果たして世の中に「絶対」なんてあり得ない。あるとしたら、それは「終わり」。人は「死」というカタチで「終わり」を迎える。どんなに強大な権力や、肉体、お金を持っていようが、人は必ず遅かれ早かれ死を迎え、その時、初めてその人の「生」の意味や価値が決まるのではないのでしょうか。
友樹くんは短い人生を閉じましたが、けして理不尽な暴力に屈しない強い精神力や友達を想う心優しい「生」は、真の少年法改正へ向けて、これからやらなければならない怠慢な大人たちに自らの命を賭して教えてくれた気がしてなりません。
私は思います。人に「絶対」があるとしたら、それは「生」ある限り、友樹くんの命は、家族、友達、少年法改正を望む多くの人々の間で記憶の中に必ず生き続けるでしょう。
私もそのうちのひとりです。
東京都 森 37歳 二児の父 会社員