いたいけな少年が嬲り殺された衝撃は何時の時代、何処でも、人々に悲しみを誘う。
しかも、それを報道することを目的とした人々ではなくて、もっとも悲しみのどん底にある肉親からのメッセージとしてである。キリストの十字架ではないが、私たちにこの原罪を背負う義務がある。
ところで、パレスチナでいたいけな少年が「僕は自爆テロでイスラエル人を沢山殺したい」という姿を見た時に、アメリカ人が報復のためにアフガン戦争を仕掛け、「アメリカでの反戦行動が死の覚悟の行動である」と聞かされた時の衝撃以上のものを感じた。
少年であるが故に、どのようにも感化されるという思いと、少年ですら、報復心に煮えたぎる心を抱いていると思うと、大人達が、如何に自らの発言・行動を正確に、未来を込めて語らない限り、この時代の末世感は終わりそうにない。このホームページの中にも、様々な意見が載せられて、心情吐露に留まらず、生命の尊さ、行動の重さ、連帯の必要性、さらには、政治への不信、教育への不信、警察への不信、などが語られるようになった。このホームページを主催する勇気と同じく、様々な勇気ある人々のことばやその存在も伝え聞くことが出来た。
このホームページの存続が、こうした人々の核として、連帯のネットワークを作り上げているのだという確信もある。それは悲しみは言えることなくとも、それ以上の勇気が与えられていること思う。
志田糺