戦後の民主主義教育が子供たちの自主性、自律性を説くあまり、本来、地域社会で守られてきた地域ぐるみの子供の保護が崩壊してしまいました。子供たちは頭の中で自主性、自律性を教えられて、その気になって社会に無防備で出て行くのですが、彼らを受け入れる社会はこの未熟な子供たちを導き、守ることすら出来ずにいます。既に、退廃の極をいく、原宿、新宿、六本木、池袋などを見てください。あれほどに子供たちが悪の巣くつにたむろする姿で、犯罪が起こらない筈がないし、人の生命の尊さ、未来を担う子供たちへの期待が沸く筈がない。それは決して法律の問題でも、警察の問題でもなくなっています。ましてや、少年犯罪が増える問題でもない。むしろ、少年犯罪がこれほど少ないのは、こうした犯罪社会から、親たちが一生懸命子供たちを守っている結果です。子供を守る親の姿は善悪は別として必死です。油断すれば、すぐに子供たちは犯罪の巣窟に囚われの身となり、その時に改悛しても遅いわけです。公立学校へは行かせない。子供ために住所を移す。門限を守らせる。熟へ行かせる。一方で、社会はどんどん、犯罪国家を作り上げていく。この競争に本当に勝てるでしょうか。

このホームページの勇気は、こうした問題を自らの反省を込めて曝け出してくださっていることです。私たちはこの勇気に応えなくてはならない。些細な事柄でも、子供を放置すれば死に繋がるということです。それは犯罪で殺されることだけではありません。加害者として子供を失うことすらあります。交通事故、電車事故、病魔然りです。幼児虐殺とて同じです。どんなに心血を注いでも、子供を死の淵から守るのは難しい場合が多いです。だから、この事件を知った私たちは、今迄以上の心血を注いで、子供たちを守らなければならない。そして、一瞬の油断が一番危険信号です。子供たちにとって、安全な領域なんてない。

私も3人の子供を育てました。この間、彼らに死に到る瞬間を幾つも経験しました。彼らが生き延びたのは幸いです。それは全ての親に共通する経験であると思います。だから、不幸にも子供を失ってしまった親達の経験は、さらに重要な意味を持ちます。それは努力が足りなかったからではなく、努力しても報われない何か理由がある。それが知りたい真実です。そこには単純には見えない真実一杯ある筈です。普通ならば、門限を守らなくても、盗みをやっても、不良化しても死に到るまでのないことが、たまたま、殺されてしまったことが重要なのです。その殺され方が問題なのではなくて、何故、殺されてしまったのか。彼らは何故殺してしまったのか。本当に、彼らは今後も殺人を繰り返すのか。彼らを罰すれば、犯罪は減るのか。

私たちは、本当に、生命の尊さを感じていますか。
私たちは生命を繋いでしか、生きていけない。子供然り、食料しかり。日本人だけでなく、地球の人々、動物の生命、同等です。子供たちが生き物の涙をみて、食事をしていますか。アフガンの子供たちの空腹をみて、食事をしていますか。文化や科学の名において、余りに多くの人々を殺し、動物を殺してきていませんか。子供たちは、人の死、動物の死を感じれなくて、動物のように、自分を楽しむために、自分を守るために平然と他者を死に追いやることになっていませんか。
志田糺