意見の1922番に載せていただいたPALです。
このHPを読ませて頂いて、事情を理解したつもりになっていましたが、そうではなかったんですね。
「夜の10時に、高校生の子供の外出を許すなんて」という気持ちに変わりはありませんが、その気持ちが、まったく別のところから出ていたことに気付きました。
夜中に外出した人は殺されたって仕方ないなんて、決して、思いませんが、あの投稿をしたときは、人殺しを平気で行なう少年、いや、少年だけでなくそうした犯罪を難なく行なえる人々の存在を肯定いたといえると思います。
そういう人たちの存在を前提に、「そういう人たちがいるんだから、夜中に外を出歩くのは 危ないよ。だから、やめよう」と言っていたのだと。
でも、大事なのは、他者の命を平然と奪える人間を育てない、このことなんですよね。
「夜中に出歩かない」というのは、対症療法でしかないんです。
ただ、現実に、あんな少年・成人の犯罪者たちが存在している限り、やはり「夜中には出歩くな」と、言わざるをえない。その自分の、今いる地点の低さと、お母さまの目指される点の高さとの違いを思い知らされました。
気付いてもなお、やっぱり私は、目をつぶって、自己防衛をすることしか考えられない。ともかく、人を傷つけて平気な人間が実在する以上、対症療法だって、大切だとも思う。
ただ、このふたつは相反するものではないと思います。小手先の対症療法で、犯罪から身を守ること、そうして、身を守りつつ、お母さまのように、すばらしい社会を目指されること。このふたつは矛盾することではありません。
でも、命の尊厳を皆が守れる社会を目指すための、力や勇気は、自らそれを勝ち取らなければなりません。
それを勝ち取るだけの努力を、私はできるだろうか。
それを考えると、自分がどれほど卑怯であるか、認めざるをえません。