誰かが、警察の不手際を非難されているように、ゆうき君の死の遠因は、加害者少年達の暴力を日常的に許してきた地元警察にあることと思います。
私たち、日本人は秀吉の刀狩以来、自ら武装することを知りません。
代わりに、暴力を必要とする場合には警察に任しております。
だから、警察は、武道を学び、拳銃・こん棒を持ち、非常時の体制を敷いています。
武装した警察は日常的に暴力的なことを予防し、また、もし、不幸にも暴力が起きた場合には、即座にその対応を迫られています。
ゆうき君の事件で、そのことが予想されたにも係らず、また、事件後もその対応が、間違ったことです。
そして、この過ちが反省されなければ、第2、第3のゆうき君の悲劇が起こってしまう危機に面しています。
私たちが報復しようにもそのために武器を持つことも、武装することもできません。
しかし、地域によっては、ヤクザに追われて、警察に逃げ込んで、逆にヤクザに引き渡されて、瀕死の重傷を負う例が後を断ちません。
この暴力を許している地域の警察が存在することは明らかです。
この地域でのヤクザと警察の密着も明らかです。
ところで、こうした暴力は、現在、テレビでのプロレスの世界でも現実です。
彼らはあの武装集団として、興行以上の行為に及んでいませんか。
誰がそれを許しているのでしょう。
昔、初段以上の武道家はケンカを禁止されていましたが、現在は彼らは野放しです。
どこでも、このヤクザとか、武道家とかにまつわる不良少年が闊歩しています。
そこでは、誰も抵抗出来ません。
庶民を守る筈の警察が、この不良少年を庇い、その後ろ盾となっている場合さえあります。
不良少年達は直接、警察と組める筈は有りません。
その背後に市民権を得たヤクザが絡み、警察との関係を維持しています。
暴力事件の多くは、ヤクザが絡みます。
ゆうき君の死がヤクザがらみであることは明らかです。
日頃の警察とヤクザ、ヤクザと不良少年の繋がりがない中で、あの事件は起きる筈が有りません。
それは親の手の及ばないところでの子供の行為です。
そして、子供自身でさえ、自分の意志の及ばないところでの暴力行為です。
この暴力行為が、英雄となり、殺人さえ、名誉とする大人社会が、横行しているのです。
司法がこの現状に追いついていないという状況はよく分りますが、むしろ、この現状に追いついていないのは、われわれ自身ではないでしょうか。
不良少年やヤクザを育てているのは、司法でも、制度でもなく、我々が任したきた警察がヤクザ、不良少年を育て、公共メディアを独占したマスメディアが暴力を謳歌していることにあるのではないでしょうか。
私たちは、警察に甘えてきたし、また、マスメディアに甘えてきた。
このHPが飯島さんという被害者の努力でしか、維持できていないことすらが、この事情を物語りませんか。
幸いに、時代が変わり、インターネットが登場し、マスメディアに替わり得る、伝達手段を我々は持っています。
このメディアを大切に活かしながら、草の根の闘いをしていかないと、特定地域で、特定の人々によって、隠蔽された暴力の根を根絶することは出来ません。
ゆうき君の死は偶然起きたのではなく、起こるべくして起きた不幸です。
ゆうき君が選ばれてしまった、不幸はゆうき君の家族を悲しみと憎しみのどん底に追いやっていますが、それは、その地域の誰か別の人達であったかもしれない。
その危険性はゆうき君だけではなかった。
もしかしたら、加害者少年のなかの誰かであったかもしれない。
ゆうき君が余りに勇敢で、正直で、正義感であったために、嵌められた罠であったかもしれない。
私たちは、ゆうき君が殺された、その地域では、今も、いつも、この事件と同じことが日常的に起こりうることを警戒していあんかえればならない。
だから、警察は反省して欲しい。
この地域の小中高の学校群の先生方にも反省して欲しい。
出来れば、地域の人々も反省して欲しい。
この事件を起したことを恥と思って欲しい。
加害者を含めて、少年達が勇気をもって、正義を語り、真実を語れるように大人達は協力して欲しい。この事件の真相は少年達の言葉によって明らかになる。
少年の心は未来に向いているし、暴力や殺人、不良など、後向きの世界ではない筈である。
それを育てるのも大人達である。
それをへし折るのも大人達である。
大人には少年達を育てる義務がある。
それは、司法や国家機構で、暴力を代替してもらうことを願うのではなく、自らが暴力の芽を断つための努力をすることである。
くどいですが、少年達の発言が、ゆうき君の死の本当のことを教えてくれる。
現在の不幸は、ゆうき君の死という悲しみだけが、物言えないゆうき君だけが表に立って、物言える、生活観もある、ゆうき君を代弁できる少年達がゆうき君について何も物言えなくなっていることだ。
志田糺