また年が改まりました。暦をはがすように一年がはがれていきました。寂聴さんの講話を聞いていたら、わが子をなくした悲しみは時間が変えてくれる、と話されていました。確かに、親自身、老い、必ず死を迎えるものですし、悲しみが一年一年と静かに潜行するようになることは間違いないと思います。しかし、外見そう見られるように、薄皮をはぐように薄れていくというのは、人によるかもしれませんが、私は体験から違うと思います。年を追う毎に、忘れていくのは周囲であって、命を分けた親の心は、悲しみを抱え込むことによって、ますます深く孤独になっていきます。
 
 ことしも元旦、独りで高尾山へ足で登りました。娘と最期の元旦に登った山だからです。人は、いっしょに行けなくてごめんね、と言ってくれます。でも、本当は、マイペースで、独りがいいのです。なぜ、元旦に泥んこになって山へ登るのかなど、息子と一人二人の友人しか知りません。なぜ飯島さんにメールを送るのかも、私にとっては同じような理由からだと思えます。
 
 病人が病院任せになり、葬儀が業者任せになって、子供たちが死のことを劇画やドラマでしか教えられず、現実の死と向き合うことが少なくなっているのに、死の教育がなされないことは、大きな問題です。死の話題を明るみに出したがらない風潮も問題だと思います。
 憎しみについても、当事者にとっては、死の問題と同じように蓋をして封じ込めてしまうような論議は、納得できないことでしょう。死の問題について、命の問題について、わが子をなくした喪失感について、私は少し自分なりの意見が言えますけれど、憎しみについては、ほとんど何も言えません。しかし、被害者の方たちのたくさんの訴えがあるから、憎しみについて多くのことを教わり、考えさせていただいていると思います。
 
 飯島さんの心が喪中なので、年賀状は控えました。
 モデムの故障に続く、複数のウイルス汚染のため、リカヴァリーとウイルス対策に煩わされ、メールも差し控えなければなりませんでした。しばらくのご無沙汰に他意はありません。
 私のHPは、ときどき日記をつける以外、意味のないHPで、飯島さんのHPだけリンクさせていただいています。無言の子供たちも読んでいます。ことしもよろしくお願いします。
                                   
                                         飯田啓子