友樹君のお母さん、良道君のお母さん、政貴君のお母さん、悠君のお母さん、康政君のお母さん、これほどの思いやりとこれほどの前向きの生き方を私達は過去に知っているでしょうか。
お子さんを思う心が、生前以上に深く、もし、番外の私達では感じる事の出来ない生命愛に到っているとしたら、私達はその至福に接しているとしか言えません。
それは、加害者(犯罪者)を憎む心と同じに育っていたとしても、誰も、その憎しみを分かち合えないけれども、こうした憎しみが二度と発生しないように、犯罪を憎む心を、私達の中に醸成できるとしたら、きっと、醸成してきたであろうこのHPの凄さを、そしてインターネットが私達に与えてくれる可能性について、さらに、深い期待を示して良いという思いです。
私が1783で犯した過ちは、青木さん、飯島さんの計らいで、修復していただきました。
私の心を鋭く抉り取られたままですが、それはびわこ放送の人達への詫びで済むものではなくて、その行為を切ってしまった、取返しのつかない過ちであり、そのことが殺人に到らなくとも、行った行為は弁明の余地はありません。
殺人者を弁護する立場ではありませんが、青木さん、飯島さんが取計らってくださった行為は、今後の闘いを見据える上で、大切な視点です。
私は罪を犯す事で、より強く、皆様との関係をより深いものと感じます。
人の意見を切ることは、大変苦しい事ですが、誤って、人の意見を理解することは、さらに犯罪が大きいような気がします。殺人者もやはり、この延長線上にいるようでなりません。彼らも、被害者との接点が余りに近いので、それほど、接触が怖い。というよりは、彼らが、被害者に近づくことは、それほど、自らの環境との闘いであり、家族との闘いであり、自分との闘いであり、出来れば、それとの闘いを避けて、その犯罪環境に埋もれていた方が余程、楽だろうと思っている場合があります。
被害者という弱い立場から、その連帯で、私達に大きなメッセージをくれるまでに発展的に、憎しみと愛情を研ぎ澄まされてきた皆様に、それは加害者の罪を許すのではなくて、加害者が犯罪を犯した自分、環境、地域との闘い無しには、被害者への詫びはないし、自らも罪から解放されることはないという事実(真実)を理解させるための闘いであるように思えます。
被害者の側でもそのように泣き寝入りにある人々が万といるでしょう。
しかし、このホームページに来ている被害者達は、その壁を越えられた。
愛しき、今は亡き子供に変わって、敢然と犯罪者と闘っておられる。
それは亡くなった子供たちへの最大の弔いであると同じに、一見、犯罪に無関係に見える私達にも、大きく手を差し伸べられて、「闘おう」と示されている。
それ以上に、泣き寝入りにある人々への連帯のメッセージとなって、日本中が、少年犯罪憎むへの大合唱となるように連帯を求められている。
それは少年犯罪が発生する全ての要因へのメスとなり、飯島さんが求められている、犯罪少年の真実、少年犯罪者達を育て、匿い、野放しにしてきた、真実を暴露する事が出来るように思えます。
若干は立ち直りを見せた志田糺より。