大阪の小学校で、大変な事件が起きました。
 
被害に遭われた子供たちや、親御さんには、何と申して良いか分かりません。
 
 
 この事件の容疑者は、現在37才とのこと。
 
例えば、この人が中高生だった頃(20年位前)、世の中は、未だ以前の
 
少年法を施行していた筈です。
 
 こちらのHPでは、度々書かせて頂きましたが、
 
当時の少年法では、『子供だから、少年だから』ということで、少々の犯罪は許してきました。
 
 私は、この人と同い年では、ありませんが、前の少年法が効力を
 
十分に持っていた80年代に、公立の学校へ通っていました。
 
当時の公立中学は、大変、治安の悪い状態でした。
 
 その頃のことを 思い出しますと、公立中の治安の悪さの原因は、
 
『旧少年法の罰則の甘さ』と併せて、『差のない教育』、『平等教育(思想)』が、
 
行き過ぎていたのではないかと、現在、強い疑念を 覚えています。
 
 
 『子供だから、少年だから』、『義務教育期間だから』ということで、成人だったら、
 
法に触れるような悪いことをしても、咎められず、罰せられなかった。
 
(別な言い方を すれば、『責任を 取らせなかった』です。体罰も禁じられていますので。)
 
『責任を 取らない』という事は、悪い生徒も、卒業するまで、他の生徒と『差』を付けないという事になります。
 
 その結果、『罪意識』を 感じることなく、彼らは、学校に何事も無いかのように
 
来ていた。そして、いつしか成人になってしまった・・・。
 
私は、世の中には、そういう人もいると思います。問題は、その子供が十数年後、大人になった時どうなるか、です・・・。
 
 
 例え、義務教育期間でも、『悪い事(人)は悪い』と、示しを 付けるべきでは
 
なかったのでしょうか?(未成年でも、補導、逮捕された人は、修学旅行には連れて行かない、とか。)
 
 昨今、日本中、どこに行っても『治安が悪い』のは、そうした背景もあると
 
思います。秩序が保てなくなっています。
 
(家で『殴られて』教育されている子供は、学校で『優しく』指導されても意味がありません。)
 
 
 学校の中だろうが、外だろうが、大人顔負けの「暴行」、「恐喝」事件を
 
起こした者、命に関わる重大事件を 起こした者には、きちんと責任を 
 
取らせるべきだと思います。また、学校が何もしてくれないというのなら、
 
被害者の親が、相手や学校を 場合によっては、訴えなければならないでしょう。
 
(未成年の犯罪者の情報は明かせないというのなら、その親の氏名や、
 
住所くらい公開すべきなのでは、ないでしょうか?子供の犯罪だからと言って、
 
誰も責任を 取らないのは、とてもおかしいし、被害者の名前が公開される
 
時もあるから、その点を 考えると、加害者を 必要以上守ることは、
 
『不公平』、『不平等』=『悪平等』です。)
 
 
 『いじめ』の問題でも、80年代には、『いじめ=暴行』という認識が
 
まだ無かったです。(最近、PL学園の暴行・傷害事件が、明るみになりましたが)
 
むしろ、いじめられる方に問題がある、いじめられて学校に来れない人は、
 
精神的にも肉体的にも弱いからだという風潮がありました。
 
でも、本当は、そんなことはないと思います。
 
私は、何もしていない人間を ただ『ムカツク』からという理由で、
 
暴行する人の方が、頭が変だし、心が弱いと思います。
 
 
 このようにして、一部の生徒の乱行・悪行のために、その他の生徒達の
 
『普通に学ぶ権利』や、『安全に学校へ通う権利』は、ないがしろになっていました。
 
素行の悪い者が、他の者と同じように通学するのは、本当に『平等』なのか?
 
 むしろ、本人のためには、普通の学校へ行かせるより、
 
彼らに合った学校(施設)へ行かせた方が良かったのではないかと思います。
 
(実際、授業について来れない人は、苦痛しか味わえないでしょう。
 
また、全ての教師が、優しく慈悲深く、落ちこぼれの人の気持ちを 理解できる人ばかりでは、ないし。
 
それよりも、彼らの話を 熱心に聞いてくれる先生がいて、彼らの進度に合った
 
授業やクラス(又は学校・施設)を 作った方が、より現実的だったと、思います。
 
お金が無くて、未だ無理でしょうけど。)
 
 
 『全ての国民に、まったく同じ条件、同じ権利を!!』という考えは、80年代から
 
とっくに限界に来ていました。この考えは、残念ながら、理想だし、非常に無理が
 
あったと思います。(いつも、誰かが我慢している状態です。また地域によって
 
治安にも『差』がありますから、治安の悪い地域の法律は、治安の良い場所より、
 
厳しくしても良いのでは、ないでしょうか。)
 
 
 結論を言いますと、『大勢の人達の生活や、生きる権利』を 守るためには、
 
どうしても『みんな同じ』にする訳には、いかないと思います。
 
『差』をつけなければ、どうしようも無いと思います。(大阪の事件でも同じことを 感じました。)
 
「成績の良い者と、悪い者」、 「素行の良い者と、悪い者」。こういうことは
 
自然に『差』ができます。自然に『差』がつくことまで、『差を つけてはならない』と
 
随分長い間、不自然なことを 特に公立の学校では、やってきました・・・。
 
 
 だから、何が良いのか、悪いのか、はっきりしない世の中になってしまったのだと思います。
 
また、この変な『平等主義』が、悪いことをしている人には、『免罪符』になってしまっては
 
どうしようも無いと思います。(いわゆる『悪平等』です。ヒロシマの「とうかさん」や「えびす講」
 
という祭りも、暴走族の乱行のために、去年から、規模が縮小されてしまいました。
 
本来なら、市民が楽しみにしている祭りを 破壊する人は、そこに参加する資格は、
 
ないと思います。一部の素行の悪い人のために、他の大勢の人達が我慢する、
 
これでは、『悪しき平等主義』でしょう。・・・こうした状態は、私が通った公立中学と
 
全く同じ状態です。一体、誰の『権利』を 守らなければならないのでしょうか?)
 
 
 80年代、学校はもう既に、安全な場所では、無かったですよ。
 
また、その頃の少年犯罪は、当時のマスコミが、余り伝えてなかっただけです。
 
それで、世の中の人たちが、気づくのが遅れてしまった。
 
今は、友樹君のご家族のように、非常につらい出来事を 公表して下さる方も
 
おられるので、世間の人に伝わる時間が、前より短くなっていますが。
 
 
 『少年犯罪』と同じく、重大事件が起きて、行くところまで行かなければ、
 
この国は、何も変わらないのかなあ・・・。
 
これからでも、もし、自分や家族に何かあった時には、泣き寝入りをせずに、弁護士を 
 
立ててでも、戦っていかなければならない、と思います。(ペンネーム・青空)