リンクを辿って、表題の事件を改めて、読みました。
41日間にも及ぶ暴行と監禁、そして、コンクリート詰め。
世の中を震撼させたこの事件も、10年余を経て、世の中から、忘れ去られようとしている。
主犯を除くと、加害者のほとんどが社会復帰をしている。
罪を償うと社会復帰できるという風潮も出来つつある。
罪は一度犯すと、永遠に償えるものではないのに、何故、このような風潮が出来るのか。
この限り、加害者は死刑に処した方が、彼らにとっても、社会にとって、
加害者・被害者の家族にとっても、より救われると思うのだが。
私は重刑を望むものではないし、少年であるならば、より寛大な措置を望む。
しかし、彼らが放置されている場所は彼らを改心させる場所でもなければ、
彼らの罪を償わせる場所でもない。
犯罪者の罪を償わせる場所とは?。そして、何故、事態は改善されないのか。
弁護士の伊藤芳朗氏は、この事件の公判で少年Bを担当した一人だが、次のように語ってる。
「初めて接見した時、Bは『彼女はかわいそうだったけど、遊んでやったんだからいいじゃない』
と開き直っていました。それを聞いて、私はぶん殴ってやりたいと思ったほどです。
しかし4人の弁護士が接見を繰り返すうちに、Bは被害者の名前を聞いただけで、
涙ぐむようになりました。自分の親子関係に対する不満がたまった挙げ句に心が荒れ、
こういう事件を起こしてしまったという非行のメカニズムを彼自身が理解したからです」
「罪の意識に苛まれ過ぎたんです。自分の罪の重さを理解すればするほど、
それを受け止める素地がない。だから、自分の罪に押しつぶされてしまったのです」
ここで言う、非行のメカニズムとは何であろうか。
このホームページでも悩んでいる非行メカニズムについて、
彼自身が本当に理解できたのか、弁護士は理解できたのであろうか。
今の私たちは理解しているのであろうか。
あみ星さんのいうように、小さな暴力、彼にとっての小さくとも、相手にとっては死を招きます。
いわゆる、この事件にとっての加害者にとって、性を遊びであるとする感覚こそ犯罪である。
それならば、この事件の加害者達は、未だに、死に至らしめたという反省があっても、
暴力、陵辱に対する反省は出来ていないことになる。
ルポライターの藤井誠二氏は、出所後のDの母親へインタビューを行った。
「もともとDはイジメられっ子で、Aの暴力的支配によって、あの事件に引きずり込まれた。
出所後は母親とひっそり暮らし、家に閉じこもっている状態です」
同じく、F(当時16歳)という少年について、
「Fは両親と絶縁状態となり、友人たちとの接触も断っていた。
その後は新聞配達で生計をたて、ひっそりと暮らしていた。」
「Fは事件の全容さえ知らされないまま出所していました。
それで、私はFに刑事裁判の全記録を読ませ、彼と話をすることにしました。
彼は初めて事件と向かい合い、なぜAに抵抗できなかったのか、
なぜ少女を助けてやれなかったのかを反省したんです」
「Fはこの時のことを忘れてはいけないと思い、被害者の供養を続けています」
4人の少年たちの家族は事件後、すぐに住んでいた家を離れている。
まだ刑期中である主犯のAは、公判中、「灰谷健次郎の小説を読んで、
初めて自分が悪いことをしたと気づき、涙を流した」という旨の上申書を提出した。
今でもAが本当に反省しているのならば、あと数年で彼は少年刑務所から仮出所が認められるだろう。
しかし、他の3人の少年が出所後の社会生活で苦労している姿を見ると、
Aの社会復帰は難しいといっていいだろう。
世間の目も厳しく、きちんとした就職先に就ける可能性は非常に低いと言わざるをえない。」
確かに、罪を償うと言う意味が、ここでも全然理解されてはいない。
罪を償うということは、1つは死者への供養である。さらには、被害者・社会への謝罪である。
そして、そうであるならば、再度、こうした犯罪が起きないための自らの行いである。
そうでないならば、罪を犯して、たとえ、刑に服しようが、たとえ、悩もうが、
彼の受け皿は何処にもないのである。
何処かが間違っている。それは、加害者が法的に処罰されれば、罪を補ったとする考えである。
それは、精神患者や、アル中患者が罪を犯しても咎められないのと同じ考えである。
しかし、罪を犯せば、一生許されることはない。
加害者は、被害者の将来を奪ったのであるから、彼もその生涯が奪われる。
それは自分が被害者のために生きることを強いられるということである。
そのような環境を作らなければ、法秩序の是非に関わらず、事件はなくならない。

また、藤井氏によると、
「刑事裁判を受けたのは4人だけですが、監禁されている少女を見に行ったり、
強姦に関わった連中は他にもたくさんいるわけです。
監禁の事実を知っていながら助け出すことをしなかった連中の存在が、事件を支えてしまったんです」
「犯罪に加担しながらも、社会的制裁を受けることがなかった少年たちも大勢いるのだ。
彼らは罪を認識できているのだろうか。」
いわゆる、この犯罪を取り巻く、地域、学校、家庭の状況は、こうした裁判を経て
も、何ら変わらないことを物語っている。
ゆうき君の問題が、ほとんど同じように推移しているように思える。
それは、「法制度」、「少年法」の問題では無しに、社会の根本的なところでの錯覚が生じている。
その1つは制度依存である。さらには制度に操られた権利意識である。そして、被害者・加害者
の関係を無視した、罪と社会的罰である。
加害者達は、その一生をゆうき君の供養、被害者への謝罪、そして、この種の行為の2度と
行わない、行わせないことの誓いを立てるべきである。
そのように展開することを万人が見守るべきであり、支援すべきである。
それが、更生プログラムでもあり、法制度における基本精神であるべきである。
そうであるならば、被害者は原罪を背負って、その地域から出て行くことは出来ない。
加害者達は、その実名とその事件を隠匿は出来ない。
むしろ、自らがそのことをいつか(たとえば大人になった時)、社会に開示すべきものである。
                        志田糺