WESさんへ
 
 私宛のご意見拝見しました。
  ここで私達に課せられた課題は、論を纏めることではなく、意見を出し合いながら、一人一人が考え、取捨選択して、それぞれの持ち場で,少年犯罪をなくすためにできることを実践し続けることだと思います。それぞれ違って当然です。他者の足場など誰にもわかりません。分からなくて当然、という前提が必要だと思います。
 
 私にとって書くと言う行為は、生きることそのものです。自分の目で見、耳で聞き、足で確認したことを基にしなければ、書けないというのは,私自身の,書き手としての個人的な立場であり、責任のとり方です。
  したがって、読者としての立場は、当然別です。読むと言う行為は、活字を通してしかそこに書かれた現象を経験できないわけですから。それでも、友樹君の事件を飯島さん自身が書かれる場合と、第三者が伝聞で書くものとの、伝わり方を考えれば、書き手がどうあるべきかが分かると思います。文字で読んだことは信じられないとか、意味がないとか、そんなことは言っていません。書く立場での私の個人的な選択が、読み手への礼儀でこそあれ、自己否定に繋がることなどありません。
 WESさんが、何のためにそのような詭弁を弄されるのか、私には理解できません。
 
  学識・経験豊かな他者が一般論や評論を書かれること、そのことを批判するつもりは毛頭ありません。ただ、今回のあなたの日本人論から私ははみだすことを指摘しているだけです。戦後の民主主義がどうであれ、バブル期の日本人がどうであれ、私は私独自の歴史を刻んできています。あなたに論評されるまでもなく、時代の中で、日本社会の中で、私自身の実人生の体験と、その位置と精神のありようについては、自分自身が一番よく認識しています。
 
 戦争を知らない人が、文字で読み、映像で見て、ある認識を得ることは可能ですが、実体験した人の認識とは、異質のものです。実体験があっても、体験自体が千差万別でしょう。戦後の民主主義についても同様です。日本と言っても、地域により、集団により、個人によってさまざまで、民主主義の実践のありようを一括りに纏められるような時代ではありません。
 
 あなたの「民衆を自分の上に置く」という論は私にはどうしても理解できません。「民衆の総意」なら法的には分かりますが、清濁合わせもった「民衆」というような具体物、人間の集合を自分の上に置いたり、生身の絶対者を自分の上におくことなど、私には考えられないのです。私にとって、民衆とは対等に横に繋がるものです。自分も民衆の一人でありながら、自分の上に民衆を置くというのは論理的にも妙ではありませんか。
 
 「民衆を自分の上に」というのが、自己を民衆と区別した場合の、アメリカ大統領や為政者の言葉なら理解できます。
 
 「社会愛」「人間愛」については、私の上に何も置いてこなかったといいながら、あなたの「民衆」に代わるものとして、探した言葉です。愛は自分の中にあるものとしては未熟過ぎるので、自分を動かす力として、理念として自分の上であろうと考えました。あなたの日本語の「上」という概念こそ、浅学な私には特別注釈を要します。
 
 戦後民主主義を規制強化で修正したいというご意見であろうかと想像しますが、その総論について突っかかっているわけではありません。それについては、少年法と同じように、総論でなく、具体的な条項ごとに考えることしか、私にはできません。
 
 規制に関連して、大分下火になっているように思いますが、私は、ポルノなど見たければどんどん見せたらよいと思います。塾生でどこからか手に入れてきて、見せにくる男子がいましたが、彼も親には内緒です。性について大人とコミュニケーションをとりたがっているのです。 
 これも、幼児のときから見せていれば、異常な興味などもちません。昇華された美的に高いものは飽きないでしょうけれど、グロテスクなもの美的根拠のないもの、精神の伴わないものは見たくないように育つと思います。私はピカソ等の裸婦の作品といっしょに並べてフランスの美しいポルノ写真を壁に貼って子供を育てました。美術作品はもちろん、当時、日本では解禁されていなかったポルノについても、生まれたときから自然に目に触れさせたい、と言うのが、男親の提案でした。
 
 隠すのではなく、子供達と、性について、命について、フランクに話せる大人との関係を作ることこそが大切だと思います。そして、自分で選べる鑑賞眼を育む環境を作ることが大切です。
 
 性を商品化する出版物の存在を容認するものではありませんが、過剰な規制強化は、かえって興味を潜行させ、幼稚な青年や未熟な大人を再生産するばかりだと考えます。
                          飯田 啓子