飯島京子様
お邪魔します。また、長くてすみません。
日曜日、駅で"Title"を買って、久里浜からフェリ−に乗ったら、風で大揺れに揺れてグロッキーになり、読めませんでした。夜、波の音を聞きながら読みました。友樹君のお部屋やかわいい愛犬が、平和だったころを伝えてくれますが、いつまでも、どこまでも悲しいですね・・。
私の子供達も水泳が得意でした。息子は学生時代に水泳の指導員をしていて、ライフガードのライセンスもっていますが、息子に言わせると、姉のほうが水泳は上手だったと言います。保田の海に、都の施設があり、朝日臨海施設もあって、小さいころから子供達が遠泳にきたり、合宿に来たり、この近海は、娘が大きくなってサーフィンにきていたところです。私は、近年、娘の思い出に、仲間があると、波の音を聞き、鴎に会いに出かけています。
昔の、純木製の重いサーフボードが捨てられなくて、部屋の中にどんと置いてあります。
”Title"飯島さんの記事が載っているので、大切にもち帰りました。引き続き寒気がきているようですが、お気をつけてお過ごしください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
WESさんへ
ご意見拝見しました。特に反論のつもりはなかったのですが、やっぱり一つ一つキャッチボールするのは、大変ですね。身から出た錆と心得ています。
あなたは日本人が総体としてどういう心と意識の状態にあるかということを総括して意見しようとされていると思います。私は、足許からしか発言していません。あなたは、「日本人は・・」と言われ、私は、「ここの論議は・・」と言っているわけで、ずれているけれど、あまり違うことを言っているわけではないのかもしれません。
あなたは、あくまでもルールに則った論議、意見の違いをどう説得し合うかについて論じられ、私は、ルール違反の、相手がものも言いたくなくなるような、説得どころか排除を意図した攻撃について、ここでの憤懣を述べています。
あなたのディベートのすすめにあえて意見することはないと思いますが、ものも言いたくなくなった人にディベートをすすめられませんから、投書のマナーを弁えて、という意味で、私は発言しています。
関連して、民主主義について、「日本人は・・」と言われると、私も私の周囲もあなたの括りに入れませんよ、と、はみ出すことの表明をしたかったのです。ここで女性問題を語りたいのではなく、こういう生き方をしてきた人達には、あなたの日本人論は、当てはまらないのではないでしょうか、という具体的な例示をしたまでです。
あなたの論からはみ出す部分の説明をしているのですから、あなたの論が、私の言うような層の女性を括った論になっていないのは当然です。男女の差別はないという建前のご意見でしょうけれど、エコノミックアニマルと言われた男性主導の日本の経済社会で、ひどく立場の違った多くの女性達の生き方が眼中になければ、「日本人は・・」と、日本人総体を括る論にはならないと思います。
男も女もない日本人を一括りにした論は、正論のようで、それが男性側からのまとめである限り、日本の現実の中では、女性の抱える問題の積み残しになってしまう場合が多いと思います。
私が言うような層がここで発言されないという現実には、大きく二つの理由があると思います。一つは、アメリカと違って、日本はインターネット後進国です。日本のインターネット人口の大半が、20代、30代である、という現実によると思います。
もう一つの理由は、私のいう層の中で掲示板を見た方も、投書しようという気になれなかった、ということが考えられます。私自身が、ずっとそうでしたから・・。意見の違いについて、説得し合うどころか、バッシングが当たり前のようなムードがあって、非常な違和感がありました。少年問題を論ずる場に、肝心の、少年や
産む性、育てた性が入っていけないムードになっていたと思います。
私が、国民全般をどうレビューするか、というご質問ですが、ここで、私があなたの日本人論からはみ出すように、日本国中歩いてインタビューしなければ、まとめられない、というのが私がものを書くときの立場です。マスコミ報道や、統計調査をもとに、ましてインターネットのご意見をもとに総括する立場にはないと思います。
私の立場で言えることは、私自身がどのようで、わたくしと接する人達がどうか、私がインタビューした方達がどうだったか、ということでしかありません。
あなたの日本人論が一般論なのか、あなた自身のお考えなのか、分かりませんでしたが、ベースは一般論であろうと思ったので、「一部一般論かもしれないが」というようなことを書きました。意味不明で、すみません。
子供は親の価値観をどうやって継ぐのか、何をもってそれを判断するのか、黙って受け継ぐのがほんとうによいのか、というご質問ですが、「黙って受け継ぐ」と言うのは、発言しないと言う意味ではなく取捨選択しながらも、自然に受け継いでいくという意味で書きました。親の生き方や長い年月の対話から受け継ぐものも、気質的には遺伝子で受け継ぐものもあるでしょう。
個人的な例なのか、そう言える根拠は、というようなご質問と受け取りましたが、個人的な経験から、多くの例を挙げることは可能ですが、プライバシーの問題もあって、ここではそれはできないと思います。
自分の子供については、職業が思想や価値観をも表現する仕事ですから、私と価値観が重なる明確な手応えを感じていますが、その詳細をここで述べることは不可能です。
また、私は、塾の講師の人達とチームを組んで、長年、母子寮の学習ボランティアをしてきました。お母さんがたともプライベートな立ち入ったお付き合いをしてきました。母子寮の子供達が育って、社会人になって活躍しているのを見ると、けなげに彼等彼女等が親の価値観を継いで成長しているのを知らされます。別れたお父さんの意志を継いでいる人達もいて、親から子に継がれるものの大きさは、はかりしれないものがあります。
どうしてそれを判断できるのか、ということですが、直接話し合って、あるいは社会的、職業的活動のありかたを見て、さらに、苦しい中、道を切り拓いていく生き方からも判断できると思います。
親から子へ、伝えようと思って、必ずしもすぐに伝わるものではないと思います。親が支配的であれば、あるいは生き方がいい加減であれば、むしろ反発される場合も多いでしょう。家庭内暴力の例もいくつも見ています。でも、長い年月見ていると、それは人の立場に立てない人同士のレッスンに過ぎないことが見えてきます。親が不遇であればあるように、一生懸命であればあるように、そこから子供達は水面下で人を愛することを自然に学び、生き方を学んで、自分自身の価値観に取り込んでいっていると思います。
WESさんは、日本人が自己の上に置くものとして「民衆」をあげられていますが、私が、私の上に大切に据えてきたものは、戦後も、バブル期も、バブル崩壊後も、言葉を探せば「人間愛」「社会愛」であると思います。
民主主義は、戦後、一番ストレートに叩きこまれた世代なので、自分にとって当たり前ですが、多数決には疑問をもち続けています。ものを書き続けながら、民衆を説得できているのかは分かりません。ときに書き続けている雑誌の、バックナンバー5年分の注文が入ることもありますが、新聞紙上では、私の実践は誰にでもできることではないと反論がきて、日本ではマイナーであるようです。
私は、「民衆」というような難しい人達を上に載せるのでなく、対等に横に置いておきたいと思います。
私自身の育児のポリシーは「叱らないこと」です。私の育児環境はその意味で、パートナーはもちろん、保育園も職員一致して同じ考えでしたから、その意味で、幸運でした。子供は叱らないほうが、相手の言うことに耳を傾けます。人の心を思いやる子供が育ちます。叱らないほうが、人の心に敏感な子が育ちます。
要するに、対等な対話があれば、相手の心に回れる習慣が身についていれば、叱る必要のあることは、ほとんどありません。私達は、「ダメ」と言う言葉すら禁句にして育児をしてきました。
まず、相手の立場で考えるのが当然、ということを大人が示していけば、子供もそのように育ちます。これは論ではなく実践の結果です。
みんなが生まれたときからそういう育て方をされていれば、子供達の自己中心主義も犯罪も相当解消されるでしょう。好きなことで頭角を現すのも確かです。競争などさせなくても、必要なことと、好きなことのためには、人間はがんばります。そのとき、大きなエネルギーを発揮できるのは、大人の価値観でむやみに縛られず、自分で考えて育った子供達だと思います。
親の価値観を継いでいる例として、私の子供は、自分の育ち方について、しきりに「親に感謝しているよ」と言葉で言った時期がありました。それは社会でたち回るようになって、自分自身の独創性が際立って自覚できるようになった時期でした。彼は今、自分の子供たちを自分が育ったときのように、自分自身は、決して叱らないやり方で育てています。
まとまりがなく不十分ですけれど、長くなりましたので、今日はWESさんのご質問の周辺のお返事だけに留めます。
飯田 啓子