私がここで心の問題を説くことが、このHPの主旨かは、読まれた方が御自分で判
断して欲しいです。私は、自分の考えを説明する事は、私が生きていく(生かせて
頂く)上での責任と考えていますので、その責任を皆様に理解・承認頂くまで、あ
るいは拒否されるまでは、続けるしかできません。
祐樹さんのユリイカの話(1342)を読んで、江戸時代の文楽を思い出しまし
た。記憶が確かじゃありませんが、こんな内容でした。
夫婦者が、大変お世話になった恩のある主人の不正を見てしまいます。見逃すこと
は、当時の法をつかさどる殿様に逆らうことになるため=義に反するため、奉行所
に密告します。主人は捕まりますが、結果的に恩を裏切ったこととなった夫婦者
は、二人で話し合った上で、罪の無い最愛の幼い息子をみずからの手で殺めること
で罪を償う決心をする、というようなあらすじでした。記憶違いあると思います
が、私の中ではこういうストーリーで残ってます。「菊と刀」に書いてあった挿話
だったかもしれません(手元にありません)。
文楽や歌舞伎は当時の(都会の)庶民にとって、今の映画やドラマみたいなもので
すから、皆、その夫婦者を自分に重ねあわせて観ながら泣いたのでしょう。皆さん
は泣けますか?幼い子供がかわいそうだからじゃありませんよ。自ら(の意志で)
何の罪も無い最愛の子供を殺さねばならない立場に追い込まれた、夫婦者の心を思
いやってです。
ここで、江戸時代は自分の責任、義務感の優先順位が、義(お上、法)−恩(雇用
主、世話になった人、親)−情(子や恋人など)の順番で明確であったことがわか
ります。忠臣蔵をみても、その順番で行動しようとします(逃げ出す・はみ出る人
がドラマになります)。江戸時代には今の概念での個人(自己)という考え方がな
いのですが、名誉とか恥という言葉と概念は強くありました。この順番から逃げ出
す人が恥だったわけです。つまり現代の概念でいうところの自己を守ることは恥
だった、それは当時の概念での自己の破壊になるわけです。
これは、行き過ぎてしまい、身売り少女、学徒出陣、特攻隊を生みました。これら
に逆らうことは恥であり、自己の消失でした。
ついこの間まで、この概念は残っていました。手前という言葉がありますが、この
考えかたの名残です。近所の手前とか親戚の手前とか。世間の手前、恥ずかしいも
の、臭いものにふたをする、という差別的な弊害は行為だけが今も残っています。
世間の手前じゃなく自分の手前として。義理とか恩はほぼ死語です。いまでも老齢
な方や古い格式の家では残っているかもしれませんが、昭和の終わり(とバブルの
崩壊)でほとんど終わったのかもしれません。概念、心がけ、として残っていても
行動には一致していないかもしれません。
一方、明治維新後、西洋から導入された、今の概念での個人(自己)という考え方
が広がり、戦後さらに進み現代に至ります。ついには、今日の日本人は、江戸時代
とは逆に自己はお上(国家)に優先され、情という関係さえもあやしくなってきて
います。私たちは、自己がすべてに優先するべきものと考えています。自己チュー
とか自分をほめるという言葉がはやります。義務や責任や公共は自己を抑圧するも
ので、自己に優先しないものとみる傾向にあります。ボランティアも、自主的な動
機がまず原点であり、奉仕、動員、強制されるという概念は嫌われます。国家を歌
わない自由を主張するのは自由ですが、同時に、国を愛する義務を主張する義務は
ありません。義務や責任という概念さえわからなくなってきています。責任や義務
は自己を抑圧しないレベル内で自分が決めて果たすべきものになってきています。
自己を主張することは当然恥ではなく、むしろ積極的にすべき善となっています。
これは、官民、労使、被害者も加害者も区別ありません。
責任という言葉の意味は、辞書を見ると、つきつめていえば義務であり、義務とは
ある絶対的な自己以外のもの(神とか国家とか法とか道徳とか公共とか)に強制さ
れるもの、です。
最近、自分で責任を取る、自己責任という事が、自分で責任の範囲を決めて、それ
を自分で取る、という意味でとられてますが、これは明らかに間違っています。自
分で決めた責任(義務)は、言葉として矛盾があります。自分以外のものが最終的
に決める、それを自分で納得して実行するから、責任や義務であり、自分だけで決
めた責任や義務は、第三者の承認が無いかぎり、自己満足にすぎません。だから、
政治家や企業や官庁の不祥事に対して、責任の取り方が甘い、と不満を持つわけで
す。
正しい「自己責任」とは、「自分がとった行動・持っている考えに対して、自分が
正しいと考える義務(最近の不祥事を例にわかりやすく言えば、義務を罰と言い換
えてもいいです)を、第三者に説明して了解を得て、あるいは第三者が修正を強制
して、それを自分が納得した、その義務を果たす事」です。
つまり、自己はいくらたっても、永久二位(銀)であり、常に一位(金)である絶
対的な何か、が存在しているのが真理のはず、なのですが、その絶対的なものは
我々現在日本人にとって何なのでしょうか?戦後、何だったのでしょうか?
私は、政治家が企業が行政が警察が教師が親が少年が、つまり国民が責任を持たな
くなってきていると思いますが、それは(当然、私を含む)国民一人一人に自分以
外の絶対的一位の存在が無い、自分の判断で勝手に一位を決められる、が、実は自
分で決める事にも疲れている、よって一位は自己と同化しつつあるから、と理解し
ています。
(別の機会に詳しく述べたいのですが、アメリカでは、自分で主張提案できるが、
自分で勝手には決められない、という考えが強いので、承認を強く求めようとす
る、大統領でも例外無く、ここが日本と大きく違うところと思います。日本人は、
自分で主張提案し承認を求めるという考え方が無い・薄い、ので自分一人一人で決
めざるを得ない、でも疲れた、ということです)
ここで皆さんに、大変失礼ながら、自己の優先度、絶対的第三者の強制への抵抗感
のチェックをしていただきます。以下のような義務が法律(国)あるいは世論(道
徳感・公共)で形成されたら、どう感じますか。
(健康な成年男女は)
1.35歳までに婚姻しなければいけない。
2.2人以上の子女をもうけ、適正に養育しなければいけない。
3.子供が独立するまで、自宅以外で共稼ぎをしてはならない。
4.同、離婚してはならない。
5.国は、1−4を守るという前提で国民に最低限度の生活を保証する。
これらは、日本が国家を維持する、すなわち国民が存在し続けることを目的に、自
己に優先させる義務を法あるいは世論とした例です。(婚姻率100%で2人以上
子供をもうけ育てないと、海外から流入しない限り、人口は何十世代か先にゼロに
なります)
仮に、罰則が無く例外を認めても、とても抵抗あるのが普通ですね。頭で理解して
も、やっぱり心というか身体が抑鬱されます。これを皆が、そうだそうだ、と言い
出したら気持ち悪いです。こんな法は今の中国でもありませんが、日本では、少な
くとも昭和30年代前半くらいまでは世論として多数だったわけです。松田聖子
は、当時だったら、ディナーショーなんかとんでもなく、国民の恥、非国民なわけ
です。
ここで、祐樹さんのお話(1342)にあったユリイカ、人を殺す事が悪い事か、
理解できない少年の話しとなります。確か数ヶ月前の文藝春秋に、この様な少年に
どう答えるか、を著名人に答えさせていた記事の見出しを見ました(私は読んでい
ません)、が、私は、人を殺すことが悪いことと理解できないという、この少年
に、自己という概念を突き進めた最終進化形態、究極体を感じます。
実は、意図的に他人を殺す(生命を止める)行為自体は、時代、地域で是とされて
います。戦争、仇討ち、魔女狩り、間引き、奴隷、死刑、正当防衛、堕胎(一部の
キリスト教では死と考える)、安楽死、尊厳死、。数年前、アメリカでハロウィン
で射殺された服部君の犯人は無罪でした。殺すという行為自体がオートマチックに
悪とはなりません。そういう意味で、単純に人を殺すことは悪い、とは言えない。
その線引きはその時代・地域の人々が、(勝手に)判断してきています。
そして、今の日本に、隣りの人を殺す事が非であると理解しない人間がでてきた。
自分(自己)が、隣人を殺したいという気持ち、あるいは殺したという行為を、非
と感じる事は、自己を抑圧する事である、と感じるわけです。(ややこしい表現で
すみません)。究極の自己優先、自分の他に対立するものが存在しない、状況と思
います。
ここまで、自己を優先した人間、自分自身が一位というか絶対的存在である彼(彼
女)に、何を持って責任をとらせることができるのでしょうか。できるはずがあり
ません。
「責任というものが、自分以外の絶対的存から(承認を)与えられ、自分で納得し
て実行すること、とすると、自分以外に対立、あるいは優先する絶対的存在が無い
彼には、責任という概念は持ちようがありません。」
よく、殺されたら殺し返せ、とかの意見を見ますが、こういう責任の概念のない人
間は、殺し返しても殺し甲斐の無い人間かもしれません。殺し返された本人にとっ
て交通事故にあったという程度の感覚しか無い、のかもしれません。
ユリイカのバスのドライバーの言うのは、何か”殺し”の抑制となるもの持たない限
り、本人の殺したい気持ちは止められません、という事なのでしょうか。それは、
ユリイカでいわれたのは、愛すべき存在(妹)を破壊しないこと、なのでしょう
か。じゃあ、妹の存在は自分にとって、絶対的一位ではないけれど、一時的一位で
あり、つねに一時的一位を用意しておいて、意図的に自分を二位にしなさい、とい
う事かもしれません。
長くなってしまいました。すみません。また、続きを投書させて頂きたいと思いま
す。今回言いたかった事(まだ説明不足なのですが)は、友樹君の事件を調べた警
察がとっている態度も考え方も、今年の成人式で暴れた若者の態度も考え方も、同
じ根っこにあり、それは、程度の差はあれ、我々日本人がすべからく持つもの、と
いう事です。続きは、同じように、自己の実現を目指してきたはずのアメリカと、
戦後から今の日本を比較して、これから日本人に求められる考え方への問題提起を
したいと思います。実は、私が最近2回ばかり投書させて頂いた管理責任を問う法
律への提案と結びつきます。あの提案は(アメリカというか西欧的な考え方と手法
での)自己責任の取り方のサンプルなのですが、アメリカが良いか悪いかは次回を
読んで頂いてから考えて欲しいです。アメリカにとってはどうでもいいことで、そ
れをする、しないは日本人次第なのですから、でも、世界の一員である以上、そう
も言えないかな、国際的に見た日本国の自己責任上は。
WES