余り、個人への手紙は書きにくい立場ですが。
飯島さんの日頃の努力に逆らうようで。
それでも、「BBS」では会話が激しく、日常的に追われる身にとって、厳しい世界のような気がします。
「ご意見」だと、読みたくない人は飛ばせるので、少々長い議論も出来るのではないかと思います。
ということで、再度挑戦します。
少年法改正が通過してしまい、本当は無力感が佇む筈ですが、この静けさはなんでしょうか。
1つは、少年法改正の流れが定着しているという実感です。
2つは、飯島さんの不幸のように、少年法の矛盾による被害があたかも発生している
意見が浸透しているという実感です。
3つは、少年法改正は1つの大衆運動ではなくて、少年犯罪による被害者の利益誘導
のようなもので、当事者でないものが近寄る術のない領域かもしれません。
4つは、少年法改正は、体制側もそれを願っており、要は法律専門家の研究課題であ
り、素人がその領域に入るには相当に覚悟をしなければならないということです。
以上、個人的な立場での観測ですが、少年法改正を唱える人々への私の実感です。
そこで、私は何を主張してきたかという総括ですが、最初は何名かに大変叱られまし
たが、家庭、学校、地域の問題抜きに少年犯罪が語れないという主張です。
それは、少年を育むという少年法の精神に基づいたものですし、たとえ、辛かろうと
も、少年法に触れてならないという主張です。
少年法に限らず、私たちには、絶対に触れてはならない、精神があります。
少年法改正の人々があたかもそれを踏みにじる姿が見てられなかったというのが第一声です。
そのキーワードに報復があります。
法治国家では、当事者であっても本当は許されない言葉が、軒を連ねて出てきます。
しかも、第2のキーワードとして「殺しても良い」という怒りの言葉も見られます。
加害者の苦しみを知るには良いでしょうが、ゆうき君の死の苦しみをわかるのは、本
当はそこで理不尽を働いた加害者でしかないということです。
自分がその立場が逆転してたら、どうなるかを想像できるのは、加害者しかいないのです。
いくら、加害者であっても、罪を悔いて、自らが、死んでも良いという境地に至るのは希です。
人を殺しておいてと何事かという人も多いでしょう。
しかし、人は生きている以上、必死に生きようとします。
人間が死に面して、生き延びるためには何でもやります。加害者であってもです。
加害者を殺しても良いという意見は、彼が再度、殺人を犯すことを誘導するものです。
国家が代理で、彼を死刑で殺そうとしても実状は変わりません。
第3のキーワードは、たらねばです。
当事者でないものが当事者ぶることの怖さです。
これこそ、マスメディアが世論を誘導することの怖さであり、事実を見もしないで盲目的に信じる悪い習慣です。
飯島さんには申し訳ないですが、このHPで知らされている事実は私は信じます。
しかし、信じるしかないのであって、私は確かめてはいないのです。
確かめるための行動を起こせないというのが実状です。
したがって、「なぜ、確かめない」、「なぜ、飯島さんところへ馳せ参じない」、
「なぜ、行動しない」という告発を受けていると考えているのです。
ならば、告発された何人の人々が動けるのであろうか。
動くことによって、その個人に何がもたらせるであろうかということを考えます。
打算ではなくて、個人が行動するにはそうした勇気、自らの環境を破る勇気が必要です。
同情だけでは、何も語れない勇気が必要なのです。
しかも、本当はその勇気と環境をもてるのは、
残念ながら、私ではなく、飯島さんと境遇を同じくされる方々、家庭、学校、地域の方々と、
同じ運命にある被害者の方々、同じ職場にある方々であろうと思います。
そうした条件は、相互のコンセンサスと目標が達成されるという可能性がなくては駄目です。
私が知りたかったのは、このコンセンサスです。
コンセンサスとは違った立場の人々が共通の土俵に上がるための条件です。
ここでいう違った立場とは、当事者と非当事者です。被害者と加害者です。
少年法でいえば、賛成派と反対派です。
地域でいえば、大人と子供、家庭では親とこども、学校でいえば、先生と生徒、いろいろとあります。
このコンセンサスを得る努力が民主主義です。
コンセンサスが選れなくて見切り発射は道理はどうであれ、殺戮、戦争しかありません。
BBSでは、そうしたコンセンサス作りの糸口は、掴めたように思えます。
しかし、BBSでの展開に見られるように、立場の違うものが共通の場に立とうとする
のですから、相当の摩擦は不可避です。
この摩擦を経て、真に友情も、連携も生れるものです。
どこでも、子供たちはケンカをしながら育ちます。
親から見れば、身てられない喧嘩でも子供たちはやってのけ、仲間になっていきます。
ただし、子供たちは間違いでない限りは人を殺す方法を知らないです。
自分の子供を見ればわかることです。
ほとんどが死に至るケンカには至らないのです。
もちろん、間違いでない殺人を犯す場合があります。
そのほとんどが、その子供が大人から殺人の方法を学んだいえるからです。
殺人を犯す子供には、その背後に大人が存在することは間違いありません。
この時には、その大人は教唆罪として、実行犯以上の罪を受ける筈です。
その証明が難しいといわれる法体系ですが、少なくとも子供には責任が全部ある訳ではありません。
もちろん、それでも、真から殺人を犯す少年もいます。
現在の法体系(司法体系)で、これを見分けることは難しい。
だから、被害者法ではないですが、被害者を救うことが前提となります。
基本的には、被害者法の充実にエネルギーを注ぐべきです。
ここには、従来の法体系、法精神に払拭するものは少ないです。
なぜ、ここで、少年法改正なのでしょうか。
少年法は児童福祉法と並んで、予断と偏見を受けやすい少年を保護する法律です。
少なくとも、BHQが世界でかってない理想国家を作るために描いた法律です。
そのために、多くの矛盾が含まれます。
これを整理すればするほど、法律執行者の予断と偏見を生み出す可能性があると思っています。
詳しい検討は必要ですが。
なぜならば、この法律はGHQと日本側との妥協の産物です。
当時の日本がどういう国であったかは衆知の事実です。
その代表者が日本を代表して捻じ曲げようとしたために、その矛盾を露呈しています。
私は、憲法を含め、国民のコンセンサスがえれない間に、現在の法律の体系を変える
べきではないというのが主張です。
人権派か左翼か右翼か、どの政党かなど関係ない話です。
しかし、実際には、少年法とかの利害の目立った法律が順次改正され、現在の法体系
の理念が崩されいくのが歴史です。
利害を受ける法律は変え安いし、そのことで、法体系の土台を揺さぶることが出来るからです。
私はこうした歴史の動きには、よき理解者ではなくて、抵抗者でありたいと思っています。
以下、長くなりますが、飯島さんの紹介された黒沼さんの著作へのほんの一ヶ所だけの疑問です。
冒頭に述べます様に、この本には沢山の疑問を持ちます。
現在、理解している一部です。
興味ある方は読んでください。BBSへ出そうとしたもので、違和感があるかもしれません。
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少年法改正の立場でのモルトさんが、いろいろまとめてくれているので、
少年法改正反対派としてのまとめないと思って、
飯島さんが紹介してくれた黒沼著「少年法を問い直す(講談社)」を読むことにした。
しかし、この著作は少年改正派の先鋒といえ、被害者向き、改正派向きの論法なので、
なかなか難しい。
実は、あれ以来ポケットに入れて暇あれば見るのだが、1行も読めないで悩むことがある。
余りに、改正派、被害者に媚びを売るので、その根拠がどうしても伝わってこない。
それでも、反対反対では、改正賛成派の人々には申し訳ないので、少し、踏み込むこととした。
誤解をしないで下さい。今から、勉強です。
仕事だけじゃなく。
勉強よりも大切なもの一杯あるけれど、踏み込む決意だけは誉めて欲しい。それでは。
その著作第3章「少年法の破綻はどこから生まれたか」というタイトルも凄いが、中身はもっと凄い。
まず、憲法と少年法を論ずるくだり。p87「旧少年法については、司法大臣官房保
護課というセクションがその役割を担っていた」、「官房保護課にとっては、新憲法
案と抵触して改正を必要とする点は少ない」とした。
p87「ところが、誰も予想しなかったことが起きる。あたかも日本側の憲法改正要
綱がマッカーサー草案に拒否されたように。」、
p88「GHQ側の窓口である民間情報局公安部行刑課のバーデット・ルイス主任は、
提出された日本側の案を認めず、逆に官房保護課に少年法改正に関する提案を出してきた」。
p92「ルイスは少年裁判所は非刑事的な裁判所だと明示したわけだが、官房保護課
は最後まで刑事処分という概念を捨てなかった」、p93「官房保護課の新版少年法
改正案はふたたび拒否された」、
p94「官房保護課からバトンタッチした少年矯正局」、が「少年裁判所法と少年事
件特別処理法の立案を適切におし進め、ルイスを説得することができていたとすれ
ば、今日のような奇怪な現象は起きていなかったかもしれない。ルイスが日本側に提
示してきた諸案の欠陥は、まさに児童福祉法的な発想のなかに犯罪少年を不用意に混
入させている点にあったといって過言ではないのだ」。
以上、長い引用であるが、次の問題が潜む。
1)GHQ(アメリカ占領軍)は日本解放に向け、世界に先駆けた理想国家を作ろうとしていた。
2) 日本側の対応は旧体制の維持に躍起の余り、GHQのこの意向を理解できなかった。
3) GHQは日本側の対案を尽く突き返した。いわゆる占領下の憲法という根拠である。
4) 一億総懺悔の中で、日本を代表できるものはいない中で、ともすれば旧体制へ
の反動さえある中で、この攻め合いはGHQに凱歌を上げたい。
5) それから50年を経た。少年法を含め多くの法律改正が行われている。
6) その根拠の第1は、この占領下の憲法という趣旨に沿っている。
7) GHQがアメリカでも実現出来ない理想国家を描いた諸法案の1つに少年法が位置されている。
8) 少年法を含め、現実に適合できない法律の改正が急速に持ち上がってきた。国際情勢という奴だ。
9) しかし、誰でも知っている憲法はあの残虐な戦争から足を洗う宣言(哲学)である。
10) それ故に、その適合は国民の運用(学習)行為にほとんどが任されている。
11) 日本の国民は上(役人)に忠実である。それ故にその運用の多くは旧体制の
もとで行われ、ほとんどあの懺悔した世論とは程遠い世論が築かれている。
12) 黒沼さんのいう「児童福祉法的な発想のなかに犯罪少年を不用意に混入させている」は最たるものである。
13) まさに、この曖昧さこそ、少年(児童)を扱う原点であるにもかかわらず、
それを切り離そうとしている。その結果の保証も無しに。
14) 全ての法律の中に、憲法精神が宿る。これが法的整備である。
15) 憲法草案の反対しつづけた旧勢力こそ、法的整備に反対する輩(サボター
ジュを試みている輩)である。現在復活している旧体制派である。
16) このBBSでの悩みはこの原点を巡る論争である。これを旧勢力風に一刀両断に
仕分けることで、従来の少年法(児童福祉法)の精神、憲法精神の精神は木っ端微塵に打ち砕かれる。
17) 私は、憲法を守るか否かではなく、憲法の中で生きている我々が、育ってき
た我々が、憲法を否定する根拠で少年法を語ることがおかしいと思うのである。
18) それならば、憲法改正の論議を先にしなければならない。
19) しかし、このBBSでは少年法改正を論じてはいるが、反対派も賛成派もそれぞ
れ多くいる。いわゆる、ここでも立場の違う両者のコンセンサス作りが必要である。
20) 賛成派の論拠も理解できる点もあるが、もし、黒沼さんの示す論拠であるな
らば、そこから改正論議に入っていかねばならない。
21) それは世論が2つに別れる。
22) このBBSでは、そうでないところでの議論をしている。まずは被害者・加害者
を出さない。もし、出したらどうすれば良いのか。
23) 被害者の論理、加害者の論理、そして、自らが被害者・加害者にならないための議論を行っている。
24) この議論の中で、少年法改正を巡る論理も当然出てくるし、それを超えた少
年の未来をどうする、社会をどうする、理想的な社会とは、が問われる。
25) この中で、今の犯罪進行をどうするのかという意見もあるが、所詮は法では
片づけない、家庭、学校、地域の問題として誰でもが理解している。
26) それでも解決できない問題は法を頼るしかない。
27) そこまで法を頼ってきたかは疑問である。誰も法など、頼って生きていないのである。
28) それこそ、マスコミに触発されたのであれば、それでも良い。真剣に少年法
の背景としての少年の環境、その運用、法に頼りっぱなしの自分、について考えてみてはどうか。
29) そうした上で、なお少年法はおかしいのか。矛盾はある。しかし、より良い
法律が出来るという保証は何処にあるのか。
30)私たちは、よりよい法律を信じながら、信じるならば、そのために全てを投げ打つ覚悟で、とりくむべきである。
31)私にその立場がないと非難されようと、そのことを納得させる条件とコンセン
サスをえれない限り、私は考え、信じることはできても動けない。
32)最後に飯島さんが少年法改正の法務大臣折衝を行っている姿には感激していま
す。といっても、私の上記のような視点については避けようがありません。