依然、BBSへの書込みが跳ねられています。
当方の設定上の問題ではなさそう。
議論は続いているので、メールで。
いうなれば、メールの方が真意が伝えやすいのかもしれない。
差別について、親について、地域について、政治家について、教師について
差別用語からの自縛はまだ、とれていないので。
むしろ、私たちは差別・排除を永遠に抱えて生きるしかない。
ここでは、加害者の立場が陥るであろう、
排除された子供たちの論理を語りたい。
差別社会は継続中で、差別用語は依然として、使用されたり、作られたり。それとの
闘いが差別されている人々の日常性。
いわゆる、当事者感覚であるか否かの違い。
無意識に使う言葉で、差別用語があれば、その人は差別する側にいる。
それを指摘を受けた時に、言葉の問題ではなくて、現実の生活の問題として、持ち帰
れるかいなか。
そうでない限り、差別用語からの自縛は解けない。
昔、精神非健常の子供たちと親達との交わりを持った。
現在の被害当事者の会に近い存在である。
その子供たちは学校にいけない。学校も、地域も彼らを排除する。
集まりは、地域で、学校で、当たり前の生活を送りたいとの願いから発した。
親は、子供が健常者であるといくら意識しても、つい、非健常者としての認識に立
つ。その苦しみを打ち明けられた。
その排除の論理は、地域、学校において、当然だが、
しかし、犯罪者を扱うように、排除するのはおかしいではないか。
親だって、親だから努力する。
地域、学校だって、努力すして欲しい。
これが非健常者を持つ親の論理である。
もちろん、多くの親はあきらめるであろう。
努力しても、いつかはあきらめていくであろう。
それが風化という現象である。
そのとき、運動は、地域の親、先生、医者を含めて広がった。
3人の政治家も加わったが、次の選挙では3人ともが討死にした。
教育長、学校長も責めたが、やはり、その壁は厚かった。
結果としては、子供は養護学校に通わざるを得なかった。
養護学校が悪い訳ではない。
それを必要とする人々とそうでない人々。
多くの親は、厳しいけれども、施設としての養護学校よりは
地域の学校への通学を願う。
私は親の代わりに彼女を1ヶ月預かった。同い年の娘にその面倒を見させた。
彼女がその子を守る姿をみながら、逞しく育っていく姿を感じた。
それでも、やはり、親の代わりは出来ない。
当事者の代わりは出来ないというのが実感である。
少年犯罪にあっても同じである。
私の立場からすれば、被害者・加害者のどちらの側にも立てない。
私の一言一言が、どちらの側に立っているのかを検証するしかない。
検証しながら、自らが、どちらにいるかを確認する以外にない。
そのことを通して、私がどちらの側に立っていたとしても、
反対側にいる人を理解できないようでは、
社会人として失格であるとの認識を持っている。
理解は同情でもなければ、憎しみでもない。
それを超えて、客観的に事実を見つめることが出来るかの目である。
不幸にも事件は起きてしまった。
被害者の数だけ、加害者の数がいる。
いずれにしても、加害者を抹殺できることはできないのだから、
両者を説得できる論理を持たない限り、私たちは社会を構成できない。
加害者への厳罰でも良い。彼らが、それを望むならば。
少年法でいう年齢制限を下げるのもよい。彼らが望むならば。
少年法はもっと複雑で、更生した人たちが一杯いる。
その人たちも含めて、通じる論理であるならば。
論理を作ってこそ、付け刃ではない、求むべく法律が生れる。
私は今なお、少年法改正の反対の立場にいる。
そのことが、更生した人々の意見を、さらに聞く機会を増やし、
私が被害者と同じく、加害者への理解を深めることが出来たらと思う。
当事者でない私は、被害者への同情を深めることは許されない。
加害者への怒りを募らせることも出来ない。
これもまた、当事者でないことの不条理である。
それは非当事者としての論理である。
特に、法を担うものの論理である。私は法とは無関係な立場にあるが。
                                                           志田  糺