私は、北九州に住む大学四年生です.実は明日資格の試験があるのですが,緊張して眠れずインターネットをしている次第です.
「少年事件」で検索してこのホームページにたどり着いたのですが,なぜこのキーワードを思いついたかと言えば,私自身先月友樹君の事件ほどは凄惨ではないですが,ある事件に巻き込まれた経緯があったからです.

先月の二十六日のことです.古本屋のバイトが夜の十一時に終わって,自転車で二十分ほどかかる下宿先に帰る途中、前方から二人組みの十八,十九才程の若者が歩いてくるのが見えました。
私は,気にもとめず、横によけて何事も無く通りすぎようとしたのですが,すれ違いざまいきなり自転車の横っ腹を蹴られ,何事かと思って少年達のほうを見ると,彼らは近寄ってきて,いきなり私のほほを殴りました.
それから私のかばんや,そのとき聞いていたウォークマンを奪おうとしたのでそれらをとり返そうともみ合っているうちに目や鼻などを殴られました.
そのとき彼らが一言,「殺すぞ」と言ったので,最近は一週間に一度は少年による犯罪を耳にしないことは無い時世なので,もしやナイフなどを持っているのではないかと思い,そのときは幸いにも二千円ほどしか持っていなかったので,それだけ渡せば刺されることは無かろうと思い,お金を出そうとしたときに眼球を思いっきり殴られ痛みに悶絶しているところ財布ごと奪って彼らは逃げていきました.
被害は,眼鏡(なぜ眼鏡なんかをとっていったのかは分かりませんが,最近買ったお気に入りの眼鏡だったのに・・・・・・・。)財布,二千円の現金、怪我の治療代の八千円。貧乏学生には痛い出費です。
この事件を経験して最も悲しかったことは殴られたり,お金を取られたりしたことではなく、血だらけで手を上げているのに,近くを通っている車が一台も止まってくれなかったことです.
係わり合いになりたくないとの考えがあってのことだろうと思いますが,私にとってはかなり精神的なショックでした.
友樹君の事件はそんなこともあり人事とは思えないのです.
以前少年事件がテレビで報道されるのを見ても,自分には起こり得ないと考え,何も「感じなかった」というのが,正直なところです.友樹君の事件、また最近埼玉で起こっている少年による通り魔事件を知って,今では鳥肌が立つほど恐ろしさを感じます.
なぜこんなことをするのか.被害者は痛かったろうな.苦しかったろうなあ.そのように感じます.
これはどういうことなのでしょうか.加害者はもちろん、たまたま被害者になった私でさえ,そのような現実の事件に巻き込まれるまでは恐ろしいと感じるということ、相手が苦しいと理解できる能力が欠如していたということです。
多分今の少なくとも私と同じ年齢の人々は大して変わらないのではないでしょうか?

これは恐ろしい、そして悲しいことです。幸いにして私はそのように感じることができる能力を学んだわけですが,自分なりに冷静に考えてみてこれからこの経験をどのように活かすことができるか、ひとまず結論を出すことができました。
それは、悪いことは悪いと,よいことはよいと自らきちんと判断しなければならない,判断する義務があるということです.当たり前のことで,多分親から教えてもらっていたことなのでしょうが,ただ頭で理解しているに過ぎなかったのでしょう.
地理や歴史、数学などの知識と同じような感覚だったのでしょう.なぜそうしなければならないのかを考えたことが無かったのだと思います.
もし私の大切な人が友樹君と同じ目にあったならばどのような気持ちになるだろう、想像してみました.
憎しみ,悲しみ,相手を殺したいという気持ち,人生への絶望、人間への絶望、加害者はのうのうと生きている.なぜ?
怒りが溶け、人を信じる気持ちを取り戻すには膨大な時間ガかかることでしょう。
それはそれとして,もし私がそのような状況に置かれたら私のすべきことはなんでしょうか?

私のすべきことは大切な人の死を無駄にしないこと、人を信じようと努力すること(人の美しい部分に目を向けること)、そして、怒り,憎しみに身を任せないこと、可能な限りそれに抵抗すること、心に思ったこと,つまり感情と,自分がすべきこと、つまり義務は明らかに異なります.具体的にどのようなことをすればいいのか私には正直分かりません.
けれど、私たちは誇り高い人間であり,そして死んでいるのではなくして,生きているのです.これはすごいことです。
そして生きている人間でしかできないこと,なさねばならないこと,があると思うのです.
生意気なことばかりを言って,お気を悪くされたら申し訳ありません.

最後に友樹君のご冥福をお祈りいたします。
インターネットは始めてばかりなのでどこにペンネームを書けばいいのか分かりません.
とりあえず「きんた」でお願いします.