バイク窃盗の件に関連して、生きている少年犯のプライバシーは、少年法で守られているのに、死者の少年のプライバシーやそれに連なる保護者のプライバシーが守られないということについての飯島さんの法改正の主張は、当事者の立場でなければなかなか気づかないことで、正当な主張だと考えます。私はこの点の改善のために、少年法の改正が必要なら賛成します。
窃盗と凶悪犯との関連について、小さな窃盗や暴力を放置することが人命に関わるような大きな犯罪につながっていくとは限らないかもしれません。しかし、盗みは悪いことだ、という教育が行き届いていないのが現実で、それは少年の犯罪をはびこらせ、増長させ、犯罪に心を麻痺させていく温床を見過ごしていることになっていると思います。言葉では分かっているはずです。でも言葉だけで教えることは大変難しいことだと思います。
少年を言葉や法律で動かすためには、 大人は、少年達と心が響き合う関係を普段から大切にすることだと考えます。自分の子供だけでなく、自分の触れる全ての少年と心の響く関係がもてなければ、私は少年法の、特に罰則を論ずる資格などないのではないかと考えています。自分も含めてです。
学校でも家庭でも、大人が少年と対立してしまったら、少年達の心を開くことは難しくなります。凶悪犯に絶望しているのは、大人みんなが少年の心の扉を叩く力をなくしているからだと思います。
バイク盗難の被害者の方の口惜しさも、少しは想像できます。息子の類似体験で、私も黙って辛い体験をしたことがあります。
我が家では、息子が15歳の受験を控えた秋に、転居がありました。受験の秋でもあり転校したくないと言って、本人は学校を説得して遠距離の自転車通学をきめこんでいました。その前の夏休み、体育系の所属部が大会で勝ち進んで結構忙しかったのに、アルバイトをして部品を買い集め、何段ギアかの高速の出るオリジナルデザインの自転車を組み立てて、意気揚揚として転居し、これも特別学校に認めさせた赤いデイバッグを背に自転車通学していました。ところが、オリジナルの自転車は、2−3ヶ月でチェーンを切られて盗まれてしまいました。アルバイトに親の許可の要る年齢で、アルバイトから、部品の買い集めから、組み立てから、受験を控えた夏に、どれほどの時間と労力をかけた作品だったかが分かるだけに、私は言葉もありませんでした。
高校へ入って、バイクの免許をとって間もないころには、友人から借りていたバイクを同じ場所で火をつけて燃されてしまいました。使わないからいいと言ってくれた友人に、これもアルバイトで気持ちだけお返ししたようですが、いろいろ勉強させていただいたと考え、
このときも、私は本人の責任問題に触れただけで、被害者意識に油を注ぐようなことは一切言わないでおこうと思いました。親の気持ちが分かるからか、息子の方も二つの事件について、警察にはいろいろ言っていると思いますが、その後もケロリとしていて、何も言ったことはありません。いまは、選び抜いた愛車が空気のように大切な年齢に達して何年にもなります。
飯島さんの犯人を殺したいという気持ちも、バイクの盗難にあった方の犯人を殺したいという気持ちも感情に過ぎないと思います。何をきっかけで、人がどんな感情を持つかまでは、だれも何も言えないと思います。お二人とも殺人を実行していないのですから・・。
感情の問題と、法は理論の問題ですから、矛盾が出てくるのは仕方のないことだと思います。飯島さんは立法機関ではなく、法を改正する要求を出されている立場ですから、思いっきり主張されたらよいと思います。息子が窃盗犯だから要求を控えなければならないなどという法はありません。たとえば、第三者の私などが、論理的に考えることとは、かけ離れていたとしても当然だと思います。
私自身は、学生時代から一貫して死刑廃止論に賛成の立場です。人間は思いがけないひどい犯罪を犯すことがあると思います。しかし、それと同じくらい人間個人も警察も人を裁く権力をもった公人も間違った判断をくだすことがあると考えます。数々の冤罪事件がそのことを教えてくれています。
少年犯に対する厳罰については、警察や司法機関や更正施設が未熟で不充分な国状の中で、多くの少年達を教育的でない場所に送り込むことは、教育の敗北だと考えます。
犯罪について、論理的に追究することは大切なことですが、心の中にどろどろとしたものを留めないように、できるレベルとできないレベルとあるでしょうけれど、当事者にはできるだけ思いをぶつけてほしいと思います。そうすることが、心の健康のためだと考えます。私などにできることは、読ませていただくことと、考え直すことと、被害者意識に油を注がないように、第三者の冷たい意見を言うことだと心得ています。
少年法改正に関してもう一つ、適用年齢を下げることは、子供を早くから自立させることになります。日本の学校教育も、学校教育に迎合する家庭教育も、「自立の教育」の観点からは、高度経済成長の時代のおかげで、著しくレベルダウンしています。法律だけ先走っても、この甘えきった子供達を自立させる教育が追いつきません。大人達が心して子供の自立を考えていかなければ、予想外の混乱をもたらすことになるでしょう。
婦人運動の人達が、かつて、生活の自立・精神の自立・経済の自立、を目標に掲げていましたが、これによって少年達の自立度を考えるとき、日本の子供達の自立度はおそろしく低いのではないでしょうか。
私の子供の中学校の校長先生は、
「人の労働を盗むな」
という言葉を子供達に日常的に投げかける方で、そのことは子供にとっても親にとっても、労働についての深い意味を考える日常になっていました。学校でも家庭でも、地域でも日常的なところから意識して子供の自立の問題を考え誘導していかないと、解決の方法はないように思います。長くなりましたので、またお邪魔します。
飯田 啓子