余りに社会の本質をつくHPだから、意見も多く、その対立もありで、
一手に引受けられている飯島さんの日夜の努力に頭が下がります。
これも、子供を惨殺された母親の怨念・怒りでしょう。
私に置き換えることこそ、重要ですが、共に恨みを抱きたい、さりとて、
こうした悲惨は2度と起こしてはならないでしょう。
このHPには高校生など、ゆうき君の同世代の人々も多く、大人がそうした
少年を導く上でも極めて重要な役割を果たしていると思うのです。
このHPこそ、加害者の少年達にも、むしろ、そうした根性を持つ少年達にも
伝えたいと思うわけですが、果たして届いているでしょうか。
たとえ、今は届かなくても、いつかこの真実を彼らは知ることになるでしょう。
直接ではなくても、彼の周囲の誰かがこの真実を知れば、彼に十分な報復を
与えられることになるでしょう。
このHPの中心意見でもある同情・報復、極めて日本的です。
しかし、法律は被害者が直接手を下したり、評価しない様に作られた近代的な制度で
す。
確かにそのことで、リンチ(私刑)という再犯罪を防ぐことに成功したと言えます。
あくまでも、法律は予防するためのものではなく、起きた事実を正確に判断し、
科学的に裁くためのものですから、同情・報復を排除するようになるのは致し方
ありません。
だから、同情・報復側を大目にみると言うことも、1つの制度改革ではありますが、
それによって、少年犯罪が減るとか、ゆうき君のような事件が減るとかは
論理的には結ぶつかない筈です。
少年犯罪の予防には別の手だてが必要であるとおもうのですがいかがでしょうか。
ゆうき君の問題は少年法ではなく、あくまでも、家庭、学校、地域の問題です。
加害者を育てた家庭、学校、地域があるならば、そこからはいつまでも第2、第3の
加害者を生み出すでしょう。
そして、今、飯島さんを守るための家庭、学校、地域がつくれなかったら、
飯島さんの人生そのものが駄目になるでしょう。
今、遠くにある人々の連携は飯島さんにほんの少しの勇気を与えるかもしれません。
むしろ、我々は飯島さんのこの悲しみの中でも生きていく姿をみて、大きな力を
与えらたことでしょう。だから、我々は、恩返しをしないと。
しかし、長い飯島さんの今後を支えるためには近隣の連携こそ必要です。
もちろん、事件の風化もあります。既に加害者は大手を振って歩くと言うではありま
せんか。
彼らの名前が出ていればと言う問題もあるでしょう。
むしろ、彼らを育てた家庭、学校、地域が存在することが問題です。
ゆうき君を失った学校は何をしているのでしょう。そしてそこの生徒・先生達は。
ゆうき君の友達仲間は何をしているのでしょう。
もちろん、飯島さんの生きる力を与えてくれている仲間の多いのを想像申し上げま
す。
そして、そうした仲間が核となり、学校、地域が変わることを期待します。
HPもそうした活動の場であると理解申しあげます。
そして、われわれもまた、自らの場所・環境を変える約束をしなければなりません。
少なくとも、ゆうき君を殺してしまったわれわれもまた、加害者です。
ゆうき君一人を守れなかったのではなく、余りに多くの尊い命を奪っていく、現代社

に生きている、我々こそが加害者です。
リンチといえば、いじめ、こども虐待など、上げるにはいとまがありません。
大人が我が子供を殺す世の中、殺戮を許容する世の中をつくっていて、どうして、
子供たちが敢然と悪に立ち向かうようしつけることが出来るでしょうか。
ゆうき君は飯島さんの愛の結果として優しく育てられたのでしょう。
しかし、ゆうき君の仲間の一人でもが、敢然と立ち向かう勇気があったら、
今、飯島さんがなされている、この勇気をもっていたら、ゆうき君は死なないで
すんだかもしれない。
誰でもが、程度の差はあれ、いじめ、村八分、虐待の経験を持っている筈です。
その度に、誰かに助けられ、また、自らの努力で立ち上がってきている筈です。
警察や法律やらの支援はぐっと少ない筈です。
運のよい我々。それを活かすためにも、何処でも、誰とでも、連携は必要です。
連携を忘れた世界、制度疲労を起こしている世界、
どれもこれも、私たちが制度に安住し、近隣でない疎遠な人々にエールを
送った天罰ではありませんか。
ゆうき君はその死をもって、われわれに語り掛けているように思える。
悲しいかな、私もまた、このHPをみて、改めて本当のことを知らされたと思う。
年甲斐もなくいってしまえば、現代社会は、予想もつかないことばかりで、
もっともっと、原点に戻らないと、全てが無になることすら予想できる。
最後ですが、飯田さん、飯島さんとの真摯な連携、
一番大切なことをお持ちのようです。
頑張ってください。